【タイトル】  消却 【作者】  水瀬愁 【管理】  小説家になろう[ウメ研究所] 【ジャンル】  恋愛 【種別】  短編小説 【本文文字数】  13183文字 【あらすじ】  兄と妹は、結ばれてはいけない。禁断には、それ相応の罪がある。身をもって感じて、俺は後悔に焦がれた。狂ってしまいそうだった。妹を愛していたくはなかった。好きだから抱いたと言うのに、今では妹の笑顔を見るのが怖かった。だから、抱いた。別の女を。罪を重ねた。処罰は怖くてたまらないけれど、後悔はなかった。重ねたあとに後悔して、総てがどうでもよくなった。そして、熱情が戻ってきた。 注意 小説には著作権があります。この小説を無断で再配布・転載する事は著作権法で禁じられています。 (C)水瀬愁 ************************************************ ◇ 「否定……しないんだね」 「誤魔化したくないんだ。だけど、それで確かなものになった……これからは、ほんとうにお前だけを一心に愛する」 「信じられるよ。今度はなんだか信じられる。兄さん、落ち着いてるもん」 「信じられなくても、もっとお前には落ち着いていて欲しかったな」 「それは無理だよ。私、兄さんのこととなると簡単にイカれちゃうから」  子供っぽいすねるような声だった。頭を撫でた。ふんわりとした感触が手の平に伝わった。 「でもさ……兄さん」  のしかかられた。首筋に手がかかった。絞められているというわけではなかった。 「もしもまた誰かのものになろうとしたら、私、今度こそほんとうに、兄さんを殺しちゃうかもしれないよ」  瞳を見た。怖ろしく、しかし心地の良い――狂気の双眸があった。気持ちよかった。彼女が俺に狂ってくれている。たまらない快楽だった。  俺も――――お前を殺してしまうかもしれないよ。  その言葉を舌で転がして、彼女の裸体をそっと胸板に押し付ける。彼女は俺に身体をぐりぐりと擦り付けてきた。くしゃくしゃになったシーツが、さらに皺をつくる。 「あのときは、私、どうかしてたんだ……愛してるよ、兄さん」 「俺もだ」  ゆっくりと彼女を下に転がした。俺が上をとり、彼女が俺を迎え入れるように両腕を開く。官能甘美が、俺に禁忌を破らせようとする。戸惑いはない。愛しかない。だから、禁忌を禁忌とは思えない。  そう、それまでの不協和音が嘘だったかのように俺と彼女は分かり合えていた。いや、これが本来あるべき姿だったのかもしれない。歯車のかみ合いがトチ狂う原因、それが取り除かれて俺と彼女は正常にもどったのだ。 ************************************************  消却 ************************************************ 「今日中には引っ越しの荷物を解かないとな。さすがに、ずるずるとひきずれるほど学校生活も甘いもんじゃないし」  俺はコーヒーを啜った後に、そう告げた。キッチンの方でフライパンを扱う少女が、にっこりと微笑む。じゅーじゅーという良い音がBGMで、我が食欲様はぐぅの音を鳴らしてしまう。コーヒーという生け贄を捧げたってのにな、全く。 「朝はお腹が空くものよ、兄さん」  タマゴ焼きの乗せられた皿を二つテーブルに置いて、少女が自らの腰の後ろに手を回してエプロンを脱ぎ始める。 「召し上がれ」 「ああ……いただきます」  少女に促され、俺は合掌とともに声を漏らした。目の前に広がる食事は簡素極まりないが、軽視すべきものの類ではない。大切に食さなければバチが当たるというものだ。  両親は海外赴任中だ。それが理由で、兄妹である俺と少女・美咲は、両親がいなくなれば広すぎて無用心となる我が家から別のところへ移り住むこととなった。  家計は、なんとかなる。我が家の方を貸し出したことで一定の収入が入ってくるし、最悪両親の残してくれた貯金からの支出でどうとでもなってくれる。だから、これからは苦しい生活が続くというわけではない。  こう言っては両親に悪い気がするけれど――このタイミングで俺と美咲とを二人っきりにしてくれたのは、好都合だ。 「兄さん。手が止まってるよ?」 「おっと……その、な。これから半年はお前と恋人気分でいられるとか、考えてたんだよ」  茶化す。美咲は目を丸くして、ボンと紅潮した。  俺と美咲は、血のつながった兄妹だ。しかし、それだけの関係ではない。  それを踏まえれば、住む場所を変えたことで転校せざるをえなくなったのも幸いだ。  元々、美咲と俺は別の高校だった。美咲が女子高にいっていて、俺は有名な大学進学高校で。自分たちの意思で選んだ高校だったために、伝えられた当初は少し不満があった。今は、これから美咲と同じ高校に通うことができるという嬉しさしかない。毎朝いっしょに登校できるし、クラブもお互いに楽しめそうなものを選り好めば共に下校できるだろう。夢のような毎日を想像して、俺は思わず顔がニヤける。 「あ、兄さん、また私のこと遊んでるでしょ。ひどいなぁ、もうっ」 「ごめんごめん」  俺の表情に気づいてしまったのか、ぷくぅと頬を膨らませて拗ね始める美咲。俺は宥めるように彼女の髪を撫でてやる。綺麗に漆黒な彼女のロングヘアは、他人に自慢できるほどに美しい。 「美咲、俺の隣で食えよ」 「うん」  ぶっきらぼうながらも、まんざらでもないという表情をして美咲が俺の隣に座る。  ささやかな幸福感に満たされた。美咲がトーストを齧り始めたのをそっと窺いつつ、俺は食事終わりの口濯ぎにコーヒーを啜る。  こうして、俺と彼女との本格的な恋人生活は始った。  制服を着て、現在の拠点であるマンションを飛び出したのは登校時限までまだまだ余裕のある頃だった。  詮索するように辺りをきょろきょろしつつ俺たちは登校経路を辿り歩いて、特に妙なものを見つけることなく新しい学校に着く。  直ぐに職員室へと赴き、美咲は女の先生に、俺は男の先生に連れられて、教室へと急いだ。  自己紹介を終えたあとのクラスの雰囲気は、予想通りの微妙なもの。転校生の俺にどう接すればいいのかわからないという顔の、クラスメイト達。席に座った俺は、妙な居心地の悪さを感じる。  無理に早く溶け込もうとするのは、かえって浮くかもしれないな。俺は別段誰かにしゃべりかけることなく、昼休みを迎えた。  そうして、今に至る。今は、美咲の様子を探るついでに弁当を届けにいこうとしているところだ。美咲の要望『兄さんと食べたいから、兄さんが私の弁当も持っておいて。そうすれば、何があっても兄さんと食べようと思えるでしょ?』にしぶしぶ従っている俺は、早足で廊下を歩いている。  道がわからなくて、通りかかってきた生徒に何度か尋ねることになったが、ともかく到着したようだ。  職員室での教室振り分けが記憶に残っていたために、自分のだけでなく美咲のクラス番号も思い出せたのが幸い。俺は迷子になるというケースを回避できたとほっとしつつ、美咲がこれから通うことになるであろう教室の中へ入る。 「あ、兄さん」  探す間もなく、向こうから俺に話しかけてきた。  俺も片手を上げ、返事をする……っと、もう一人誰かいるようだ。 「紹介するね。隣の席で、藤原月子さん。私にいろいろよくしてくれるのよ」 「はじめまして、美咲さんのお兄さん」  凛とした雰囲気を持った、どこか落ち着きのある少女。美咲と同級生とは思えないほど大人びたその少女は、俺がじっと見ていたせいか、途端に恥ずかしそうな笑みを浮かべる。  ――冷たい感じがしたのだけど、案外可愛い子のようだ。きつい顔立ちとのギャップが可愛さを引き立てているようにも見える。どちらにしても、悪い子ではないようで、美咲は良い人にめぐり合えたみたいだな。  俺は藤原さんの片手をぎゅっと掴み、優しく微笑んだ。 「はじめまして。これからも美咲のこと、よろしく頼むよ」  耳まで真っ赤にして、藤原さんが顔を伏せる。その様子がおもしろくて、俺は自然とニヤついた表情をそのままに藤原さんを眺め続けた。 「……」  妙な顔をする美咲を、全く気にかけることなく。 「美咲さんのお兄さん! 大変なんです」  ある日、終業のチャイムが鳴る頃に、廊下の方から大声をかけられた。  俺の顔を見るや駆け寄ってきた藤原さんに、すぐに美咲の事というのが浮かんで、クラスのざわめきなどどうということもなくなる。  落ち着いた様子の似合う彼女らしくなく、少し慌てたように藤原さんは俺へと説明してくれた。  美咲が――――倒れた。  今は保健室で安静にしているらしい。俺はそれを聞いて、一先ず安心する。一大事でないかぎりは、ちょっとした疲労による困憊にすぎない。少しの間休ませておけば良くなる、と、俺はこれまでの経験から覚れていた。そして、おろおろと俺の判断を待つ藤原さんがおのずと目に入ってくる。  俺は彼女の肩に手を置き、大丈夫と言った。 「知らせてくれてありがとう。保健室にいるのなら、転校したばかりで疲れただけなんだと思う。 安心して、藤原さん」 「は……はい」  あっと息を呑んだ彼女は、おずおずと頷いて落ち着きを取り戻した。 「美咲の友だちが、君みたいな優しい子で、俺も安心だよ」 「あ……お兄さん」  どんな風に返せばいいのかわかりかねると言った風に、藤原さんが困った顔をした。可愛いなぁと微笑ましく思って、わざと下の名前で呼んであげる。 「ありがとう。月子ちゃん」  追い討ちをかけるように彼女の顔を覗き込む。 案の定、どうすればいいかとおろおろする彼女が、目を明後日の方向へと泳がせてしまう。 「い……いえ、どういたしまして」  やはり、思わずといったふうに顔がニヤついてしまう。しかし、俺は教室の中へともどりカバンを引っつかんで、踵を返すようにそそくさと月子ちゃんの元へともどった。 「そろそろ、美咲のところにいくよ。心配だからね」 「あ、はい。それじゃ、また明日……」  ひらひらと手を振り合い、俺と月子ちゃんはそうして会話を止めた。  そして俺は、特に振り返ることもせず美咲のいる保健室へと急いだのだった。  数日後の登校の最中、俺は見知った者の背中を見つけて、思い切って声をかけた。 「おはようございます……美咲さんのお兄さん」 「おはよう、月子ちゃん」  声をかけてきたのが俺だと気づいて、月子ちゃんが柔らかく微笑んでくれる。  俺が隣にくると、彼女はビクッと肩を震わせて半歩分距離を離してきた。  その頬は少し赤めいている。  一体どうしたというのか、俺は訝しげに思う。  彼女にちょっかいを出しすぎただろうか。思い返してみれば、いろいろと思い当たる節が多すぎて困る。  ええと……謝るべき? 「あ……つ、月子ちゃんは、いつもこんな時間に登校しているの? 結構遅めだけど」 「い、いえ。今日は、その、美咲さんと……お、お兄さんと、いっしょに登校できるかと思って、そのぉ……」  そ、そうなんだと渇いた声を上げる俺。なぜか空気がどぎまぎとしてしまっている。 「そ、そういえば、美咲さんはいっしょでないんですね」 「ああ、うん。あいつは、今日は、ちょっと……」  話すわけにはいかず、言葉を濁した。  まさか、言うわけにはいかないだろう。  ――妊娠の検査にいった、だなんて。  俺と美咲の関係がそういうものだと、他人に漏らすわけにはいかない。恋人でいられる範囲も、家の中だけと案外小さいのだ。  まあ、両親がいた頃には真夜中だけという非常に短い時間だけだったのだから、この頃にその反動がきてしまったということ……俺の我慢のなさが悪い。 「そ、そうですか……」  月子ちゃんが、俺から顔を背けるようにして相槌を打った。  何か、おかしい。彼女はどうしたのだろう。  まさかとは思うが、女の勘というやつで何か感じたのか?   ……まさかな。  お互いに押し黙って、とぼとぼと学校に向かっていく。  結局、妙に堅苦しい空気が解けることはなく、俺と月子ちゃんはお互いの教室へと別れた。  そして、更に数日後の放課後に"それ"は起こった。 「兄さん、帰ろ」  担任教師の薦めでなんとか集めることのできた部パンフレット。それを教室の自分の席でペラペラめくっていた俺は、顔を上げてその二人を見た。 「よう、美咲。月子ちゃんもいっしょか」 「うん」  美咲が俺の肩に手を添えて、頬が触れ合う距離で手元を覗き込んできた。  そして、納得気な声を漏らす。 「ボーッとしてると思ったら。それで、兄さんはどれに入るつもりなの?」 「まだ決めてない」  仮入部の期間をいちいち設けてもらえはしないし、もう少し情報を集めるべきだろう。パンフレットから得られたことは活動日がいつかということくらい、どういう活動を行うかを推測で終わらせてはいけないだろう。  コンピューター部に入って、ただインターネットをやるだけだったりするなら、自宅でもできる。とにもかくにも、美咲にはそのような活気の無いところで頑張らせるわけにはいかない。  欲張るなら、どのような部員がいるのかまで知っておきたいな。美咲が溶け込めるかということを心配しないでおくためにも。  ……ここまで考えてるから、父さんや母さんに「やれやれ、親バカに勝るシスコンぶりだなぁ」とか言われるんだろうな。 「さ、さあ。夕飯の買い物でもしに、帰ろうかっ」 「兄さん、空元気なの見え見えよ。何かあったの?」  妹に心配される兄の図。情けないことこの上ない。  そのとき、美咲の後ろに付き添っていた月子ちゃんがおずおずと口を開いた。 「あの……お兄さん、私もごいっしょしていいですか?」 「ああ、うん。いいよ」  俺の返事に、フッと月子ちゃんの表情が和らぐ。  いじらしい可愛さだ。愛玩動物のハムスターみたいな魅力がある。ひとつひとつへの表情の変化が愛らしくて、愛しさが湧いてくる。  第一印象から大分ギャップがあるなと、俺は『人は見かけによらない』という言葉を痛感する。 「……さあ、行きましょ」 「お」 「あっ」  瞳をしばたかせる無言の後、美咲が俺の腕をとってそそくさと歩き出した。俺と月子ちゃんが、同時に声をあげる。  そうして教室から出た俺たちは、この新たな街で学校ほどによく通う大型スーパーへと歩を進めた。  スーパーの中では、俺がカートを押し、その前を美咲と月子ちゃんが並んで歩いている。 「兄さん。月子ちゃん、お料理が得意なんだって。 今度ご馳走してほしいよね」 「おいおい、無理言うんじゃないぞ。ごめんな、月子ちゃん」 「い、いえ……きっとお兄さんよりも下手です、私」   ぽっと頬を赤く染めた月子ちゃんが兄の顔を立ててくれる。ううん、良い子だ。  確かに、俺もある程度は料理ができる。でも、美咲と分担性になることを見越してここ最近始めたばかりだから、作れるものは最低限。 「俺も、月子ちゃんの手料理を食べてみたいな」  考えれば考えるほど、女の子らしく料理を嗜んでいるであろう月子ちゃんの方が上手いと思える……いろいろなジャンルに手を出しているだろうし、俺のとは違ってテーブルが栄えるんだろうな。 「あ、ありがとうございます……お兄さんに褒めてもらえて、嬉しいです」  いやいや、滅相もございませんよ。  俺は微笑み、たまねぎをひとつ手に取った。  今夜は味噌汁でもつくるかな。 「……兄さん、私のリクエスト聞かないで勝手に決めちゃうんだ」 「あ、悪い。何か食べたいものあるのか?」  俺が振り返ると、美咲はプイと不満げに顔を背けた。 「べつに……勝手に決めればいいじゃないですか。私、好き嫌いはありませんし」  なぜか敬語。美咲が不機嫌というのは目に見えているのだが、原因はなんだろうか? わからず、月子ちゃんと顔を合わせて疑問詞を想った。  そうして、美咲が理想としている恋人像の一角も知らない俺は、適当に物資を購入してデパートを出たのだった。  さらに後のある日。俺はまた月子ちゃんに呼びかけられた。 「また美咲が倒れたのかい?」  そうなると、結構頻繁だ。対処の方法も変えなければならない。  しかし……月子ちゃんはぶんぶんと首を横へ振った。 「え、違うの?」  次はコクコクと縦に。 「……どうしてしゃべらないの?」  ビクッと震え、月子ちゃんはぎゅっと結ばれていた口を開けた。  しかし、そこから言葉は作られず、ただ魚のようにパクパクと動くだけ。  ――と思った矢先、決意を固めるように月子ちゃんがグッと俺の顔を覗き込んできた。 「今日、私の家で晩御飯食べませんか? ご、ご馳走します」 「え? ほんと? そりゃ嬉しい。それじゃあ、あとで美咲といっしょに――」 「い、いえ……お兄さんにだけ、来て欲しいんです」  熱にうなされたような表情で、俺に潤んだ瞳を向ける月子ちゃん。  俺はドキリとした。妖美、妖艶、そういう類のものに、俺は魅入ってしまっていた。  何かに突き動かされるように、俺は月子ちゃんの手を取った。  そして、優しく囁く。 「裏門で待ってる」  その言葉に、月子ちゃんがふわりと幸せ気に微笑んだ。  つられて、俺も微笑む。  美咲の幻影が見えて、ふっと微笑みが瓦解しそうになった。けれど、意味がわからなかったために耐え凌いだ。  俺は、月子ちゃんの微笑む姿に目を細めた。  躊躇いがあった。しかし、押し殺した。彼女に先導され、彼女の家の中へと入る。  どこにでもあるような質素さ。だが、綺麗に掃除が行き届いていた。直線の廊下を抜け、リビングと思われる部屋へ足を踏み入れる。  手前、円形のカーペットの上に低めのテーブルが置かれ、団欒でテレビが見れるようにしてある。壁にくっつくようにして、ソファも一台置いてある。  奥、腰までより高さのあるテーブルにはイスが五つ。キッチンと直結しているようだ。 「今日はお父さんもお母さんも仕事で出かけているので、私たちだけです。だから、畏まらなくていいですよ」  耳に入る、濡れるように色っぽい声。月子ちゃんの目を見たくなくて、俺は少しこっ恥ずかしく思って、顔を背けた。 「後で、月子ちゃんの部屋も見せて欲しいな」  話題を換える。すっとんきょんな声が聞こえてきて、訝しげに思った。 「す、少し時間がかかりますので、くつろいでいてくださいね」  振り返れば、一足早く月子ちゃんがキッチンの方へと消えていた。  仕方なく、俺はイスへと腰掛け頬杖を突く。  ……非常識だったろうか。  と、その時、俺はふと思い至って懐から携帯を取り出した。  美咲に連絡していなかった。今からでも家に通話して、俺を待たずに食べてくれというべきなのだろう。  しかし、なぜかボタンをプッシュしようと思えない。 「月子ちゃん、俺に手伝えることはあるかい?」  俺は携帯を懐へともどし、月子ちゃんへと歩み寄った。  無言の食事はつらくなかった。  そして今、嬉しそうにはにかむ月子ちゃんとテーブル越しに向かい合って座っている。  目の前には、中身が空になった皿がいくつか。とても美味しかった料理たちを思い浮かべ、口を開く。 「とってもおいしかったよ。良いお嫁さんになれるね、月子ちゃん」 「あ……ありがとうございます」  月子ちゃんは、制服のブレザーを脱いでいる。  カッターシャツが薄いせいか、元々大きく見えていた胸元がさらに強調され、  はずされていないネクタイが双丘の谷間にすっぽりとハマっていて、どこか艶かしい。 「さ、最近……お兄さんのことをよく考えるようになったんです」 「えっ?」  言わんとすることはさすがにわかる。信じられないという気持ちが大きい。  潤んだ瞳を向けられ、揺れた。 「月子ちゃん……」  自然に漏れた自分の声は、重く、低い。  月子ちゃんが、ちろちろと出した舌で自分の唇を舐めた。  理性が一枚一枚ていねいに剥がされて、そしたら、あとには本能しか残らない。  俺は美咲をレイプしたんだ。理由はわからない。ただただとても愛おしくて、自分の物にしたくなったんだ。欲望が抑えられなかったんだ。俺は罪深いんだ――俺はそう懺悔した。  なら、私がその渇きを癒してあげます。美咲ちゃんでなく、私で渇きを満たしてください、お兄さん――甘い果実が身をくねらせた。  だから喰らった。貪った。よがり狂わせた。美咲から純潔を奪ったあのときのように、俺は息を荒くした。  姿が重なった。"俺"を突きこんだときに見た、"俺"に貫かれた少女の姿。月子ちゃん、美咲、どちらも俺を一心に見つめている。  全てが同じだ。事を終え、突っ伏したとき、さらにその気持ちが強まった。 「月子ちゃん……」  君さえいなければ、俺の罪は増えなかった。俺は間違えなかった――この言葉は飲み込む。勝手な意見だとわかっている。贖罪から逃れようとした俺が、間違っている。それが正しい。正しすぎて、息が詰まる。  夕食の後、俺と月子ちゃんは同じベッドに倒れこんだ。そして、愛し合った。 「お兄さん、ごめんね。お兄さんが苦しむことになるなら、今日の一回だけ。今日のことは、夢だったことにしましょう? 私、お兄さんが望むなら、全てなかったことだと思い込みますよ」  嘘だった。彼女の瞳が、それは建前だと語っていた。そうだとわかるのは、同じようなことを体験したから。  美咲。美咲も、月子ちゃんと同じことを口走った。そのくせ、恋人ごっこまがいのことをし始めた。忘れるどころか、もっと根付かせた。美咲は俺に尽くすようになり、俺を求めるようになり、俺だけを見るようになった。そして言ったのだ。  ――『私、今とっても幸せよ』  なぜ俺に最高の微笑を浮かべるのか、理解し得なかった。ただただ、つらかった。俺が美咲を狂わせたと、顔を合わせる度に痛感した。  だからか、だから俺は月子ちゃんに逃げたのか。  そして、また同じように罪を背負う。  いや、同じ以上。この罪は大きすぎるが故に、人間程度には二つも背負えるはずがない。俺は、生を奪われることで両方の贖罪を完遂できる。  それか、または――  俺の胸の中で、黒い炎が燻りはじめた。  家に帰る。リビングルームに入った途端、虚ろな双眸に見定められた。値踏みされた。俺はへらへらと微笑んだ。 「男友達とゲーセン行ってたんだ。連絡できなくて、ごめん」 「ウソ。兄さん、私に嘘なんて吐けるんだ」  血が凍った。美咲が薄暗いこの部屋で腰を上げ、俺に歩み寄り、俺の頬に触れた。瞳はあまりにも鋭利で、俺の首元に押し当てられた刃のよう。 「美咲……」 「兄さん。兄さんはわかってないよ」 「美咲……」 「私、兄さんのこと許してるの。ただ愛してくれさえすれば、あの日のことなんてどうでもよかったのに」 「美咲……」 「兄さんはひどいよね。好きになったから私を汚したくせに」 「美咲……」 「誤魔化そうなんて、考えないほうがいいよ。兄さんから女の人の臭いがするもん」  美咲は鎌をかけてきている。そう予想できる。その予想は正しいはずなのに、しかし違うと直感が答えてくる。 「兄さん」 「違う……違うんだ」 「私、兄さんは悪くないってわかってるわ。悪いのは、兄さんを惑わせた女の方」  やめてくれ――誰か美咲を止めてくれ。  俺が壊してしまった美咲が、さらにトチ狂っていく。見ていられなくて、俺は声にならない悲鳴で助けを求めた。  重い身体を引きずり、シャワーの水を浴びた。服は、道なみで適等に脱ぎ捨てた。  目に水しぶきが沁みるのも気にせず、ゆっくり丁寧に全身を手で拭っていった。  夏ではないどころか、ゴールデンウィークも遠い春の今日。水はあまりにも冷たく、それを吸った衣服の異常な冷たさに俺は身震いする。  俺は何がしたいんだ――わかんねぇよ。  美咲は何がしたいんだ――俺を取り戻すために誰かを殺す。  美咲と月子ちゃんを汚した俺は、罪を背負っている。俺から罪を拭おうと、美咲が罪を犯そうとしている。美咲が罪を持つことで、俺の罪はさらに重くなる。  俺は世界の中心に立たされていた。俺を中心に総てが回り、総てに俺は翻弄されている。 「翻弄されているだけじゃ、ないだろ」  俺が選んだ。俺が望んでこうなった。それ以上の何を望む? 一体俺は何を望む?  ――総てが失せ消えることを望む。  俺は黒い炎に飲み込まれた。怖かった。怖ろしかった。今この瞬間に何かが変わったような気がした。言うなれば、獣が内に在る檻を開扉するような、危機感。不快感。俺という存在の何かが、一瞬で覆された。  この瞬間、俺は暗黒と手を繋いだ。俺という形はそのままに、中身が暗黒へと移り変わった。存在の方の俺が蝕まれ、そんな俺へと暗黒の神が聖句を与える。呪わしくも素晴らしいその一言は、俺を変えた。  殺せ――殺してしまえ。  変えられた俺は魔王として生まれ、魔王として君臨する。  久しぶりに、息を吸うのが楽だった。俺はシャワーを止めて、室から出る。  と、そのとき、開かれた状態で落ちている携帯を見た。  まるで俺に恐怖しているかのようだ。俺はニヤリと口元を歪めてそれを拾う。ディスプレイを見た途端、俺はさらに笑みを強くした。  意図的に表示されたと思えるメール。それの内容は、ざっと見通すまでもなく、たったの一文。俺のアドレスをいつ知られたのかは、大体予想がついた。  『今日はありがとう。好きです。 月子』  誰がこれを開いたのか、その解答とともに以降の物語も容易に想像できる。  息を吸って、吐いた。  自分を赦せるのは自分だけだ――二つの人物像がフラッシュバックした。共に、絶望が滲み溢れてくる。昂ぶる興奮。  俺は獣の目で、最小限の時間をかけて必要なものを物色した。  玄関のドア。施錠されていなかった。押し開ける。玄関に入って、一応靴は脱ぎ捨てた。そそくさと奥へ進む。  月子ちゃんと夕食をとったリビングは、無人だった。見上げる。透視できるはずはないが、月子ちゃんの部屋のある二階をじっと見つめた。  ドンという物音を聞いて、俺は弾かれるようにリビングから飛び出す。  廊下の脇にある階段へ足を踏み入れ、二段飛ばしで駆け上がり、手近に見つかったドアノブを回し、そして、 「兄さん、どうしてここにいるの」  雷光――俺の頭を貫いた。  机は、扉の埋め込まれている壁の右方に沿われている。ちらっと見た分には、小さなぬいぐるみが置かれた女の子らしいものだった。照明が付いていないために、カーペットにイラストされた無数のクマもどこか怖ろしいものに見える。その奥、ただひとつ光の差している窓側には、ベッドがはめ込まれるようにして設置されていた。  そんなこの部屋に、ランジェリー姿の美咲は立っている。その手には、ギラリと鈍い光を返す果物ナイフが持たれている。剣先は、尻餅をついて青ざめる月子ちゃんの首に触れている。 「美咲。お前も、いつかはこうなることは予想してたんだろ」  丁寧に、しかし迅速に抜刀。取り出したのは、たかが包丁。銃刀法にひっかからない程度の刃物だが、手入れは常に気にしていた。まだ何も狂っていなかった頃、俺の料理技能の低さを美咲が笑ったものだ。それで俺は、物をよくすれば綺麗に切れるようになると思って――斬るものが人になるとは思っていなかった。いろいろ思うことはある、しかし、今の俺にとっては利用できる物でしかない。 「美咲。俺がお前を呪わなかった日が、今までにあったと思うか」  同じものを、もう片手にもう一本引き抜く。二刀流なんてヒーローじみたことはできない。一本を投げ、一本で仕留める。素人同士の殺し合いに策略を立てるということさえ勿体無いように思えたが、念を入れすぎた気はしない。 「お前には、俺を呪って欲しかった。お前にだけは呪われたかった。俺を呪わないお前を、どんなに呪ったことか。わかるか?」  思わず、首を左右に振る。こんなことを言いに来たわけではない。不満を言うつもりはなかった。もっと、別のことをやるつもりだった。 「美咲――俺の罪、お前自身の死で洗い流してくれ」  感情が昂ぶった。ドス黒い衝動に駆られ、俺は片方の刃を握り締めて走る。  ある程度鍛えていた身体能力を生かし、美咲へとグングン近寄って、頃合を見て俺は刃を突き出した。  目で見ていたからわかる。間一髪のところを避けられた。それを視線で追いながら、ステップを踏んで切り返―― 「え……?」  俺は勢いをそのままに、月子ちゃんの胸を抉り刺した。  死に際にしてはすっとんきょんすぎる声。刃をグッと押し込み、少しだけ身体を離す。丸く見開かれた瞳に現実味が帯びて、俺に問いかけてきた。  なぜ?  応えは返さない。  そして、ゆっくりと俺へ月子ちゃんの手が伸び、  指先が俺に届かぬまま、月子ちゃんは絶命した。  動かないものから目を離し、俺との立ち位置が入れ替わった美咲を見る。  時間がたてば親友になっていただろう友人の死に様を見ても、美咲は冷たい表情を貼り付けていた。 「美咲、お前もこうなる。俺の手によって」  悪役を気取るなら、嘲笑を浮かべるべきだった。しかし、表情はピクリとも変わらなかった。 「……兄さんが幸せになれるなら、それでいいよ」  美咲がナイフを捨てた。そして、まるで総てを受け入れると言う風に柔らかく微笑んで、そっと両腕を広げた。  途端に自分がドス黒いと認識して、俺は刃を持つ力を弱めた。  だが、次の瞬間に再度強く握りこむ。 「呪ってやる」 「うん」 「呪い殺してやる」 「うん」 「俺はお前を殺して、苦しみから抜け出す」 「うん、いいよ。私を殺して」  吐き捨てる俺に、だけどと美咲が一度息を吸った。  そして、両手でさわさわと自らの下腹部を撫でる。 「私のお腹の中に、赤ちゃんがいるんだ。兄さんと私の子供。兄さんは優しいから、子供を携える私は殺せないよね。私を襲おうとしたあのときのように、子供のこともめいっぱい愛して欲しい。もちろん、性欲的な意味じゃなくてだよ、兄さん」  この瞬間、俺という闇が、  ――――瓦解した。  家にもどった後、一心不乱に美咲を愛した。何かが吹っ切れたのかもしれない。強い愛に愛が返ってきて、俺は幸福を感じた。それでも何かが足りないような気がして、ひたすらに愛した。  一息を吐くように、突っ伏する。即座に美咲が俺の胸板に身を寄せてくる。甘い吐息に、更なる情欲がめらめら燃え上がりそうだった。 「あの日、見ちゃったんだ、兄さんと月子ちゃんがいっしょに裏門から帰るとこ」  情交を行ったあととは思えないほどの真剣な顔つきで、美咲が尋ねてきた。 「だから、いろいろ考えちゃったの。真っ先に思いついたのが、浮気をしてるんじゃないかってことで、どうしても兄さんが恨めしかった」 「ごめんな、美咲」 「否定……しないんだね」 「誤魔化したくないんだ。だけど、それで確かなものになった……これからは、ほんとうにお前だけを一心に愛する」 「信じられるよ。今度はなんだか信じられる。兄さん、落ち着いてるもん」 「信じられなくても、もっとお前には落ち着いていて欲しかったな」 「それは無理だよ。私、兄さんのこととなると簡単にイカれちゃうから」  子供っぽいすねるような声だった。頭を撫でた。ふんわりとした感触が手の平に伝わった。 「でもさ……兄さん」  のしかかられた。首筋に手がかかった。絞められているというわけではなかった。 「もしもまた誰かのものになろうとしたら、私、今度こそほんとうに、兄さんを殺しちゃうかもしれないよ」  瞳を見た。怖ろしく、しかし心地の良い――狂気の双眸があった。気持ちよかった。彼女が俺に狂ってくれている。たまらない快楽だった。  俺も――――お前を殺してしまうかもしれないよ。  その言葉を舌で転がして、彼女の裸体をそっと胸板に押し付ける。彼女は俺に身体をぐりぐりと擦り付けてきた。くしゃくしゃになったシーツが、さらに皺をつくる。 「あのときは、私、どうかしてたんだ……愛してるよ、兄さん」 「俺もだ」  ゆっくりと彼女を下に転がした。俺が上をとり、彼女が俺を迎え入れるように両腕を開く。官能甘美が、俺に禁忌を破らせようとする。戸惑いはない。愛しかない。だから、禁忌を禁忌とは思えない。  そう、それまでの不協和音が嘘だったかのように俺と彼女は分かり合えていた。いや、これが本来あるべき姿だったのかもしれない。歯車のかみ合いがトチ狂う原因、それが取り除かれて俺と彼女は正常にもどったのだ。 「もうひとつ、言わなくちゃならないことがあるの」  突き込んで、頬が触れ合った瞬間に美咲が熱い吐息を漏らしてきた。 「赤ちゃん、実はまだできてないんだ」  悪女が――言葉ではなく、動きでとがめる。嬉しげな悲鳴が発せられた。  俺は確かな愛を抱いていた。今度こそ、これは贖罪ではないものだった。だからだろうか、俺の罪を消却するためという風に、遠くから近づいてくるサイレンの音があるような気がした。 ◇ 「という夢を見たんだが、現実になるような気がして怖くて怖くて」 「いや、高校三年なんだからそんなことありえないッスよね。っていうかまず両親のどちらかが単身赴任することすらありえない家庭ッスよね。それ以前に、あんたの妹にはちゃんとした彼氏がいましたよね!?」  夢オチだったという悲しい話を友人に説き聞かせ終えたところで、クラス内にいる者全員へと声が飛ぶ。  どうやら、時間のようだ。俺はイスから腰をあげる。長く座りすぎたからか、少しひりひりと痛む。  ぞろぞろと人が外に出て行って、俺のいる机六列の半ば辺りはもう無人に等しい。  黒板には、赤や緑や黄色や白で飾られた祝い文句が描かれている。  ときにはうざったいと思ったり、無駄に過ごした日数の多いこの教室を、ぐるりと見回した。  掲示物のほとんどが取り払われていて、少し物寂しい。 「おい。はやく行かねぇと怒られるぞ」 「ああ、今行く」  俺より先に廊下へ飛び出したあいつを追うように数歩進み、もう一度振り返る。  何度も机から眺めた窓の向こうの青空を吟味し、俺は今度こそこの教室から去った。  ――ともかく、今日は卒業式だ。  end...