【タイトル】  ショートショートすと〜り〜ず【 恩 】 【作者】  水瀬愁 【管理】  小説家になろう[ウメ研究所] 【ジャンル】  恋愛 【種別】  短編小説 【本文文字数】  2648文字 【あらすじ】  医者である僕、妻である彼女。昔の僕たちは世界の汚れに染まっていなかったはずなのに。いつからだろう、彼女の微笑みをみなくなったのは。いつからだろう、僕が彼女を裏切ったのは。その報いは唐突に訪れ。最後の時だけは、彼女を微笑ませる存在になろうと誓った 注意 小説には著作権があります。この小説を無断で再配布・転載する事は著作権法で禁じられています。 (C)水瀬愁 ************************************************  It is black, and the white is dyed. I am stained with a beautiful は dirt. The happiness is stained with misfortune. The light is stained with darkness. All is awfully too sad fleetingly.  一分一秒でも早く、彼女の元へと行きたかった。  間一髪のところでペダルから軌道を逸らし、その横を力の限り蹴り叩く。  ドス黒い気は消えず、舌打ちをもらした。  速度の乗らない、今まででは最高といっていい長さの渋滞。  己が車を好んでいたことを今になって後悔する。  車であってよかったと思っていたときもあったのだ。  走馬灯が駆け巡る。  そう――あれは、まだ彼女の微笑みをみることができた時のこと。  医者として、僕がやっと免許をとることができたあの頃。  彼女の微笑みを、真横で盗み見ることができた。  幸せだった――今のドス黒さは一体なんだろう。  彼女のことを忘れるように仕事に没頭し、上へ上へと駆け上る。  何の意味があったのだろうか。僕は、そんなことが本当に幸せだったのか。  自嘲する。狂ってしまいそうだった。  彼女は寂しいだろう、だが彼女は強かった。僕が彼女に頼り続けても、心の安らぎを求めても、彼女は一度たりとも弱音を吐かなかった。  僕にどうにかできる女の子じゃない――付き合いだすとき、彼女の友達にいわれたことを思い出す。  ぽよぽよとしているけど、失敗もするけど、いつも正直で、失敗を生かすことができた。  周りにいる人を和ませ、幸せにすることができた。  そんな彼女に一目惚れして、僕は本当に大切なものを手に入れることができた。  なのに――僕はバカだ。  自嘲しても、何も変えられない。でも、あとは狂うしかできない。  こんな僕に彼女はどんな言葉をかけてくるだろうか――いや、彼女はもう今までの彼女じゃなくなっているかもしれない。  僕が傷つけた。僕が彼女を、翼の折れた天使にしてしまった。  彼女の笑み――遠く昔のことに思えた。  最後に、彼女とゆっくり話したのはいつだろう。  最後に、彼女の微笑みをまっすぐと受け止めたのはいつだろう。 「バカやろう……」  ハンドルに頭を叩きつける。  頬を伝う液体を、止める方法はなかった。  彼女が遠かった。昔の自分が遠かった。  彼女が天使なら、僕は悪魔に成り下がっていた。彼女に微笑まれる価値すらなくなった僕。  彼女に微笑まれなくなるだけならまだしも、彼女を微笑めなくしてしまう――大きすぎる罪だった。  こんなことを考える理由。遅すぎる、こんなことが起きないと振り返ることもできない。 『あなたの妻……残念だけど』  アクセルを上げた。  渋滞路線から逸れ、速度は極限まで上げられる。  感覚が麻痺し、無言という静寂で走り抜ける。  一直線だった。  何を言うことができるのか、何をすることができるのか。  ――何かをしていいのだろうか、僕は。  傷つけてしまった。それこそ、消えない心の傷を。微笑みを奪う傷を。  彼女の微笑みを思い出し、別の衝動に駆られた。  僕の、彼女と過ごした数年間。  彼女が、僕と過ごした数年間。  僕が過ちを犯していようとも、彼女と過ごした日々は変わらない。  彼女の微笑みを見つめた時期は変わらない。  ――恩返し。  そんな言葉が浮かんだ。  彼女への恩、数え切れない無数、僕はそれを返さなければならない。  するべきことは、消えることか――否。  きれいごとかもしれない。だが、それに僕は無理やりでも食いつく。  恩返し。傷への罪滅ぼし。それ以上の――愛。  すべてをこめて、すべてを注いで、僕ができること。  答えの到達とともに、彼女がいる――僕たちの思い出の寄り所に灯る光がぼんやりとだが見えてきた。  アクセルを強める――迷いはなかった。  ガチャリという音とともに、ドアが開く。  医者としての地位と富で得た最高の生活環境――物の配置、キッチンの場所、彼女は終始笑みで考えを巡らせていた。  部屋の中央、二つソファを対峙させ、真ん中にランプがほのかな明かりを発する。  暗闇に隠れた彼女の顔は伏せられていて、彼女の自慢だった長く柔らかい髪に隠されていた。 『子供が産めない体。あなたが出張中にわかったのよ』  同時にそれ以外のこともわかった。  消える、掻き消える瞬間の、小さな炎。  いつまでも灯り続けそうで、その期待を裏切るように一瞬で消える花火。  彼女の人生にぴったしと当てはまる事象だった。  すべての仕事を投げ出して、ここにもどってきた。  上のやつらを殴ってまで、ここにもどってきた。  今の僕は――やっと、枠組みから逃れ出ることができるようになった。  彼女の横へ腰を下ろす。  冷たく強張った身体に、そっと腕を回した。 「……ごめんね」  顔をあげ、はにかんでくる彼女。  それは今にもなきそうで、それでもすでに泣く気力すらなくした、諦めた心の現われ。  彼女は言葉を続ける。 「あなただったら、子供いっぱい可愛がったよね。あなただったら、たくさん私に楽しいこと作ってくれたよね。 でも、ごめんね――私、あなたの期待裏切っちゃうよ……あなたの傍にいられなくなっちゃうよ……」 「いうな、もういい――何も言うな」  彼女を強く抱き寄せ、彼女の顔を己の胸へと押し付ける。  淡い光でよかった。見てはいけないものもある。それは恐れでも悔やみでもなく、正義に近い衝動で、見てはいけないのだと悟った。 「僕、子供って嫌いなんだ。病院でも、子供っていうやつはいつもはしゃぎまわって、ヒヤヒヤさせられる。 子供なんか嫌いだ。それに……」  お前が一番だからだよ――言えなかった。  小さく嗚咽をあげ始めた彼女を軽く撫で、昔の自分が撫でていた彼女の髪に頬を寄せる。  なんで、こんなにも汚れてしまったのだろう。  昔の自分は夢を見ていて、昔の彼女は無垢に微笑むことができて、とてもとても穏やかで。  それなのに、最後の光はなぜこんなにも儚いのだろう。  僕の瞳の中で、ランプの柔らかな光はゆらゆらと揺らめきながらも灯り続けた。  No matter how much I promise that I protect only your smile and your happiness no matter how much to be out of order no matter how much to fall apart even if no matter how much it is polluted even if stained――どんなに汚れても、どんなに汚されても、どんなに崩れようとも、どんなに狂おうとも、君の微笑みと君の幸せだけは守ることを誓う――