【タイトル】  ショートふぁんたじあ【  闇  】 【作者】  水瀬愁 【管理】  小説家になろう[ウメ研究所] 【ジャンル】  ファンタジー 【種別】  短編小説 【本文文字数】  9841文字 【あらすじ】  闇黒の神に、俺は魅入られていた。俺は闇そのものだった。俺はそれを甘く見ていた。俺は己に満ちる絶望の濃度を勘違いしていた。光など一切存在しないことを、光など一切存在してはならないのだと、俺は理解した。俺は孤独だった。黒い炎だけが俺と手を繋いでいた。 注意 小説には著作権があります。この小説を無断で再配布・転載する事は著作権法で禁じられています。 (C)水瀬愁 ************************************************ 0.  めまいがした――眉間を押さえる。 「道がわかんねぇ……」  過去に通った気はしている。しかし明確な判断は下せない。右か左か。右と思えば左な気がしてくる。じゃあ左かと思えばやっぱり右な気がしてくる。  振り返る。住宅街の家並み。目に留まるものはない。物寂しい。  ――救い手は差し伸べられていない、ということか。  アリスを連れて来るべきだった。デッドヒィトが援助を欲していたからアリスを救援に向かわせた。だから今の俺は一人身。いなくなって知る。全てを任せきっていた。アリスが俺の時間割を管理していたことをひしひしと感じる。それでも俺が自由にできていたのは、アリスの有能さ故か。  前に向き直った。左右に伸びる道の先を見通す。目を凝らす。左は桜並木。右も桜並木。 「……左、かな」  右な気がしてきた。  しかし、立ち往生し続けるわけにはいかない。 「現場から抜け出して来てんだから、尚更――」  ひとつの足音が鼓膜を揺らして、反射的に片手を胸ポケットへ入れた。  左の桜並木の向こうに目を凝らす――人。気配を隠す様子はない。無防備ととって、いいやと首を横へ振る。  ここは日本だ。銃刀法違反で武器所持禁止の、甘ったれた俺の故郷だ。  神経質になりすぎだ。と自分を叱りつつ手を引き抜く。  とぼとぼと一人歩いているその人が近づいてくる。近づいてくるというのは錯覚だろう。俺はあっちの人を知らないし、あっちの人も俺のことを知ってはいまい。住宅街で不自然に立ち止まっている俺は不審者くらいに見えてしまうだろう。  不謹慎な態度をとらないように――自分にそう科せて。 「……え?」 「……あー」  予想外という衝撃に、思わず目を瞑った。  踵を返し、目を開ける。背にいる人物に口を開く。 「一日だけの帰省(きせい)だ。お前の気が病むようならここ以外のどこかに消える……お前の幸せの邪魔を、するつもりはない」  心が針で緩慢に刺されているような心地だった。顔は見たくもなかった。蔑まれるのに慣れた筈なのに――昔との温度差があると想うと、辛くてしょうがなかった。 「待って」  歩き出そうとして、声で止まる。止まったことを悔んだ。無視してでも走り去れればよかったのに。今からでも遅くはない。足を動かせ――昔の暖かさを求める弱い俺が、そうさせてくれなかった。 「……あのときは、ごめんね。ついカッとなって、それで兄さんのこと傷つけて――」 「お前が気にすることじゃない」 「でも、でもね。今は悪いと思ってる。長い時間で整理がついたの。 兄さんは悪くなんかなかった。なのに私ったら……」 「何が、言いたい」  懺悔するような声に虫唾が走って、振り返った。 「……兄さんがいなくなって……私……私…………」  弱弱しく呟く少女。憑依型悪霊の見せた悪夢の本体。俺の向ける闇はあのとき以上のはずだ。  だからこいつは畏怖する。畏怖している。畏怖しているはずだ――俺を。俺という存在を。今の俺を。過去じゃない俺を。  心がない。あまりにもこいつが可哀想すぎる――中途半端になる優しさはお互いを傷つけるだけだ。理解している。しかし理解できていない。 「………………やり直したいの。兄さんと、もう一度――私、兄さんのこと……」  嗚咽で潰された声。これ以上意味のある声は聞こえてこないと覚って、目を瞑った。  愛おしい愛。狂おしい愛。俺は求められていた。俺も求めていた。求めに応じ切れなくて死にかけた俺。求める心が萎み衰え冷め切った俺。罵倒され、壊されて行った俺。思い浮かぶ。罪に苛まれていたあの頃。壊され尽くされて行く中で、しかし幸せになれると思っていたあの頃。  俺は、変わったのだ。 「……俺はろくでなしだよ」  強くなれてはいないにしても。  絶望に身を漬して、俺は変わったのだ。  どう変わったのかはわからないにしても。  背後にいる存在に顔を背けて歩き出せるほどに、俺は薄汚れたのだ。 1. 「状況は?」  辺りが禁止区域となっていることを確認して、手前にいた男へと声をかける。  男は深く俺にお辞儀した。 「区域から出る様子がないため、地縛霊の類かと。  確認した被害からして、単体ではなく複数……二、三体ほどですが、悪霊なりかけもいるようです」  悪霊という言葉に、鼓動が高鳴る。  内を見通すことの叶わない。それは黒いドーム。 構成された陣の成す、世界の隔絶がそれだ。  俺が今居る此処も、更に張られた陣の内。俺と同類の者しか存在していない場所が此処。  此処は――今は漆黒の空、今は灰色の街。今は生者が息を潜め、今は誰もが近寄ることを許されていない。 「【真を知らぬ者には無知覚という束縛を】だったか……」 「この陣のことをおっしゃっていらっしゃるのなら、そのとおりです」  今更なんだという言葉を目に秘めた男。気づいた。しかし、気づかないフリを貫き通した。  ドームに手を這わせる。 「……下がれ」  そして。 2.  肌に刺さる凍てつきの風が、冷醒な思考をより冷たくする。闇黒で漆黒な世界が、灼熱のような思考をより猛(たけ)狂わせる。  廃校――三階建てのように見える。薄汚れた白のコンクリが、この世界で際立っている。 「あの中か……」  そう呟いてから、振り返った。  瞬時に抜き出す、中国の主力拳銃――トカレフ。  不意打ちを狙っていたそいつの懐へ沈み込み、銃口(マズル)を押し付け、一発をお見舞いする。  鎌伐の両腕を異常なほどに伸ばし痙攣したそれは、炭と化して散り失せた。  悪霊――違う。 「悪霊の手駒……」  自身から分離させた霊力に形を模らせるほどの技を使える悪霊が、この場所にいるということになる。そこまでの知力を持ち合わせている敵だということにもなる。 「頭使い合うのは、骨が折れるんだけどな……」  生きるための活路を考えている自分。それは本能。  死にたいと願い続け呪い続けている自分。それも本能。  矛盾。矛盾だが、しかし、どちらも本当。  だからこそ、俺は死ぬこともできずに生き続けている。自分に背き、自分に従い続けている。 「今度こそ――死ななくてはいけない」  俺がこの世界を手放せる内に。  俺がこの世界を手放せなくなる前に。  強く五指を握りこもうとして。 「きゃぁぁぁぁぁ!!」  悲鳴を、聞いた。  生者は入り込めないはず――稀に見る例外と予測し、舌打ちする。  同時、走り出した。  ためらいはない。悲鳴があるということは、危険が発声者に迫っているということ。この場所での危険は霊系統が多々を締めていることを思うと、走り出すことが悪い賭けでないことは明白。  下駄箱が乱雑に並ぶ玄関口。職員室、保健室と書かれたドアをスルーし螺旋階段を飛ばし飛ばしで昇る。  波立つような悲鳴に耳を立て、階数を選び、茶色い廊下に土足で踏み込む。  奇声と呼べるそれの近づきに足を早め、通過しかけたドアにトカレフを噴かせ、身を翻してドアのなくなったその部屋へ入り込み。  白濁に汚れる少女と、それに群を成す男と。 「あ……あ……」  ――俺を、見た。 3.  紺色の空。それに塗りつぶされてしまいそうな赤。 「ヘ……ヘヘ……まだヒクヒクしてるぜ…………」  赤の水溜りに脚が濡れるを気にも留めず、男は女を組み敷き直した。 「そんなにほしいのかよ……雌豚が…………」  男が腰を動かし始めたせいで。  女は、淡い蒼のかかった髪を振り乱しながら、喘ぐ。 「いや……いやぁ……」  悦楽に酔う色と絶望に崩れ落ちる色を混ぜた瞳を、俺に向けて。 「……なんだ、これは」  衝動が駆け巡る。  憤怒を燃料として燃え上がる黒い炎。五指の食い込んだ手のひらが痛みを発する。だが、しかし。 「てめぇら悪霊は、それほどに死にたいのか……?」  ――愚か者を愚かと罵る衝動は、止められない。 「……ぶっ殺してやる」  誓いを立てた。それに総てを委ねると誓った。激情のままトカレフのトリガーに人差し指をかけ。  一歩踏み出し、その脚を軸の中心として回り、全力で腕を振るい。 「GYA!?」  銃身(バレル)をそいつに叩き込んだ。  メリメリという音、絶叫に塗りつぶされた。絶叫、人間の聴覚できる単位を越えていた。聞こえなかった。世界が無音のように思えた。俺だけの世界のように思えた。  ――だから、いらないものを消し去る。 「あばよ……」  そいつの口に銃ごと手を押し込んで。  俺は、俺だけの世界にいらないそいつを破滅させた。 4.  少女を陵辱(りょうじょく)していた男が消えた。少女は消えなかった。理由、男は俺の破滅させた奴の分離体、少女は違う。納得できる。思考を振り払う。  黒い血に濡れた銃を少女に向ける。トリガーに手をかける。少女に眼光を向ける。  怯えると思っていた。しかし少女は怯えなかった。力無く腕を上げて、虚ろな瞳を俺に向けて。少女は言った。 「……お父さんとお母さんを助けて」  その言葉は響いてこない。銃の引き金を引き始める。 「私なんか、どうなってもいいから……お父さんとお母さんを、助けて」  少女は、伸ばした片手で俺を擦(さす)った。  艶かしい手つき。俺は呆然とした顔で少女を見直した。 「どうなってもいいから……助けて」  俺は反射的に少女を抱きしめていた。  少女は恐怖に打ち勝っていた。少女は俺に媚びていた。ちっぽけなプライドを持ち合わせず、少女は俺にすがっていた。自分の生死ではなく、他人の生死をどうにかしてほしいと言っていた。俺にはない感性。自分の死を欲し、自分の生を呪っている俺にはあるはずのない無垢。  俺は引き金を引けなかった。銃口を少女に向け続けることすらできなくなった。  俺は、あのときの俺に必要であったであろう無垢に、それを欲するように、強く強く抱きついた。  あのとき――不幸のどん底に落ちていたあのとき。恋人に冷たい目を向けられ続け、俺はどうすればいいとトチ狂っていたあのとき。  友達を失った。思い出を失った。それだけで終わらなかった。これだけはあり続けると思っていた愛すらも俺は失った。しかしあいつは俺を失おうとしなかった。俺を兄と慕っていたあいつ。俺を恋人にしたあいつ。俺のせいだと罵ってきた。周りはそれに賛同した。俺は孤独の中で壊れ行った。  思えば、俺はあいつのおもちゃだった。あいつが遊びたいと思ったときに遊ばれ、裏切るどころか勝手な意見を持つことさえ許されない。手を動かすことさえ、俺の意思であってはならなかった。  決別した幻影。確かに俺はあのときに背を向けて歩いている。しかし、俺はあのときを拭いきれずにいる。  あのときまでが幸せすぎたから――修学旅行のときに二人っきりで星を眺めながらキスを交わし、卒業式には手を繋ぎあって下校して、お互いの中には微笑みしかなくて、お互いがお互いに溺れあっていて。 「ぅぅ……」  思い出すな。  念じながら、薬を口内へ押し込む。  クリアする思考。清々しくなる回路。空気から苦味を得る味覚。味覚だけが超人的なわけでなく、残る五感もまた人外チックへ引き上げられ。  遠ざかっていく過去。現実に戻ってくる感覚。拳を作る。強く強く作る。 「苦しいのですか……?」  フランス語。俺の使える言語。切り替える。口を開く。 「お前の両親はどこだ。俺が連れて行ってやる」  舌が動く。言葉を紡ぐ。発音におかしさはない。母国語でない異国語、母国語ほどに使いこなせる。  少女の手が俺から離れた。ゆらりゆらりとある方向へ。 「あっちか」  少女を背負い、走り出す。  軽かった――霊体に重さはないと気づき、自分を嘲笑った。 5. 「パパ、ママ……」  少女がそう呼びかける先で、穏やかに微笑む男と女が一人ずつ。  張り紙のない教室。机やイスのない教室。広々としている中で、ポツンと立っていた。  そちらへ、おぼつかない足取りで進む少女。  エリーゼ、辿り着くまでに聞いた名前。いろいろな話を聞いた。いろいろなことを話した。ジョークも言った。何を言ったかは思い出せない。エリーゼが笑ったことだけはおぼえている。それが輝かしかったことだけはおぼえている。  遠のくエリーゼの背中を見続ける。懐にしまいこんだトカレフを感じる。その近くに差し込んだメスを感じる。抜き払い駆け出すシュミレーション。エリーゼに迫る危険は排除する。誓いを立てる。目を細め、エリーゼの歩の先にいる男女を見る。 「エリーゼ……」  声を発する男。暖かな微笑。それに応えるエリーゼの横顔。幸せそうだった。  デジャ・ヴ――目を瞑る。 「KISYAAA!」  奇声を聞いて、目を開けた。  エリーゼを背に庇いながら後退する男女。それに飛び掛らんとしている異形。  トカレフを引き抜いた。瞬時に異形をポイント。発砲。反動でずれるポイント。先読み――弾丸は当たらない。もう片手を胸ポケットに差し込んで疾走。 「GARUU……」  弾丸が鼻先を掠めたのか、弾かれるようにして退いた異形は俺へと威嚇の唸り声を発する。  そいつは白骨に緑の血肉を纏っていた。  そいつの視線が俺を捉えているのを覚り、グンッと速度を跳ね上げる一歩を駆けた。  同時、引き出す。  指先だけでメスをコントロール。手の中で回転させ刃を異形へ。握りこみ、振るう。  一瞬の早業。異形の喉元を抉る。いや、白骨を砕く。打突ととれる一撃、相手を絶滅させるには至らない。しかし粉砕は施した。 「GYAAAAAAA――」  絶叫。声を放つのは、切り離され転げ落ちる白骨の頭部ではない。どこが音源かなどという雑念を捨て、無音に落ちる。  トカレフの銃口を異形に向け、連続の発砲。カチッカチッという音が響いて、舌打ちを漏らしながら異形にトカレフを振り下ろした。  のめりこむ銃身。焼け爛れていく異形の血肉。ねじ込んだままのメスに回転をかけんとした俺は。 「がッ――」  腹部に溜まる熱さを感じ、呻きを漏らした。  音のある世界が帰ってくる。熱さが痛みとして表れていく中で、俺はギギギ……と首を回し、痛みの根源を見た。  横腹に突き刺さる白骨。それを辿る先には、エリーゼの父の穏やかな笑みが。 「……そういうこと、か」  掠れる声。気にしてなどいられない。  穏やかな笑みという皮を貼り付けたままの異形が二体。此方の数撃で傷つき破滅に近づきつつもまだ生き続けている異形が一体。  それらに囲まれている俺は、立ち回り方によっては糸も簡単に死ぬこととなる。  死ねる。望んでいた状況だというのに、なぜ俺は生きるための活路を探しているのか。 「……パパ……ママ…………」  呆然と異形二体を見つめ、ペタンと崩れ落ちたエリーゼ。  異形の一体が、俺から目を離してエリーゼに向いた。  じゅる、じゅるという吐気がしそうな足音を鳴らしてエリーゼに歩み寄る異形。  回転した思考回路――最悪を予測した。  やめろ――念じる。  異形は鋭利な刃と化した片腕を振り上げた。  その下には、目を見開いて硬直しているエリーゼが。 「逃げろ、エリーゼ!!」  叫ぶ。なぜ叫んだのか理解はできなかった。結局は俺が壊す霊だ、悪霊が壊してくれるのは都合が良いだろ――思考回路の冷徹な助言。わかることはできた。しかしわかりたくなかった。  俺に突き込んだままの白骨を捻り、ケケケと目の奥を光らせるもう一体の異形。  残る一体も、憤怒の込められた強烈な一撃を叩き込まんとしている。  だが、そんなことはどうでもよかった。  燃え上がる黒い炎。なぜ。理解できない。しかし燃え上がっているのは確か。なぜ。燃え上がる必要はないはずだ。俺は殺される。悲願を果たす。この世界から解放される。罪から逃れる。希望通りのはずだ。なぜ。なぜ。なぜ―― 「あぅ……」  呻きを漏らしたエリーゼ。目が合った。俺にすがる目、涙に潤んでいた。  それを見た俺は。  頭の中が白に染まった。  爆雷――炸裂した。フラッシュバック。その中で俺は理解した。俺は俺を理解した。やっと理解した。  同時に流れ始めた涙。止められない、止めようと思いはしなかった。得たいの知れない感情の嵐は、しかし心地良い。  エリーゼから目を離し、目の前の異形へ向く。 「悪ぃ……てめぇらに殺されるわけには、いかねぇや」  誓いを、立てた。  誓いに呼応させるのは、ひとつという総て。  鳴動――空間が震え上がるのを感じる。内から引きずりあがってくる全力を感じ、口を開く。 「第一封印儀式術――」  限 定 排 除   唱えよ、己の理想を。  掲げよ、己の意思を。  信じよ、己の意志を。  今この身に宿した力は、自分以外の全人類を敵に回しても勝利できるほどの、御伽噺のような力。  故に、俺はこう呼ぶ。 「【絶対者】……ここに降臨せん」  目を閉じる。  ――目を開ける。  グランギニュールの始まりだ。 6.  お前はなんでここにいた。総てが終わってから尋ねた。  連れて来られたの。返ってきた答えは予想外なものだった。  誰に連れてこられた。静かに呟く。  王様。短い言葉。眉を顰める。  ヒィト・ヘィル・マフィス。その名前を聞いて血が凍った。  あの人は、いろんな女を抱くわ。呆然としている俺にエリーゼが言う。  そんなことはわかっている。ヒィト・ヘィル・マフィスは――クラック・テス・デッドヒィトという名義を持っている悪友だからだ。  ここの情報を教えた張本人でもあるデッドヒィト。俺を図った。罪深い。エリーゼにこんな扱いをしたことも合わせれば二重に。  地獄に落としてやる――穏やかな笑みを作って、エリーゼに手を差し出した。  いっしょに来ないか。本心から来る言葉を言ったのは久しぶりだと気づく。それに伴う、現実が俺を中心に回っていないという不安も、久しい。  ここにいる理由がないから、それでもいいけど。エリーゼの返答。歯切れが悪い。俺の中で燃え滾る焦燥が、その疑問を流した。  縦に無駄に長い超高層ビル。それのエレベーター。窓という画面から見れるはずの絶景は世界の漆黒に塗りつぶされている。窓を覗き込む。自分が見えた。  車に残してきたエリーゼを思い浮かべる――総てが終わった後に成仏させなくてはならない。だが今考えるべきことではない。  ポケットからビンを取り出す。ビンからカプセルを取り出す。口に入れようとして、止まる。  死ぬぞ――俺の呟き。  それがどうした――俺の嘲り。  悪魔に魂を売ることの何が悪い。  カプセルを飲み込む。飲み下す。消化する感覚……弾けた。  ドアが開く。俺は開ききるのを待たずに歩き出した。 「良い夢は見れたか――もうおねむから醒める時間だぜ」  同時、弾丸をフル装填したトカレフを引き抜いた。 7.  これは、俺なりの報酬だった。  死に直行させるのではなく、じりじりと近づいてくる死を味わわせてやる。俺を騙したことへの報酬。 「ま、待ってくれよ。俺たちはパートナーじゃねぇか。そ、そんな簡単に切り捨ててくれるなよ」 「友達の罪はしっかり断罪する。それも友情ってもんだと、俺は思うぜ」  もっと上手いことを言え、俺を楽しませろ――メスを投げかける。刺さった場所は心臓の少し上。響き渡る絶叫。心地良い。 「アリスはどこだ」 「へ……ヘヘ…………キャ、キャラじゃねぇだろ。部下がどうなろうとどうでもいいってのがお前のスタイルじゃねぇか」 「二度としゃべれなくしてやる」  銃口をやつの眉間へ押し付ける。 「やめろ、やめてくれ! まだあいつには手を出してないんだ! 命だけは助けてくれ!!」  デッドヒィト――愚かな屑。どちらにしてもくたばるしかないことを知らない。俺に命を刈り取られるか、死神に命を刈り取られるか。デッドヒィトは知らずして後者を選んだ。それが良いのかどうか。わからない。どうでもいい。 「デッドヒィト。俺の、最高の友人よ――俺を愚弄した罪は」  自分の首を、親指で横になぞる。他人を嘲笑うのは愉快だった。俺は悪魔になりきれていることを実感できた。 8.  心臓がドクンと脈動した。  薬の魔力で心は安定を強制されている。それでも酷だった。  部屋に幾つも張られた鎖。それに全身をはさまれ、食い込んだ鎖に白い肌を赤に滲ませている――アリス。  翼の折れた天使。そんな言葉が浮かんだ。俺の全ては凍りついた。視界も世界も何もかもが凍りついた。  ぶっ殺してやる――明確な誓い。その対象はもうこの世には存在しない。しかし黒い炎は灼熱になる。俺を焼き焦がす。 「アリス…………」  震えた声で、手を伸ばす。鎖を掴む。千切りとばそうとして、失敗して、また千切りとばそうとして、また失敗して、しかしまた千切りとばそうとして、アリスがゆっくりと目を開けたのを見た。 「アリス……」  今は切り裂かれ見るかげのない、お気に入りだと言っていた服のこと。  今は焼け爛れ無様に切り取られた、艶やかだった金髪のこと。  今は咄嗟に目を逸らしてしまうほどにエグイ、白く滑らかだった肌のこと。  言いたいことが数珠繋ぎになる。どれもが謝罪。意味のないこと。それでも何かひとつでも言わなければならないはずだった。しかし声は出なかった。 「アリス……」  総てがトチ狂っているように思えて、仕方がなかった。  俺はアリスの名を呼び続けながら、この現実を創り上げた神を何度も何度も呪った。 9. 「……死んでるの?」 「馬鹿言うんじゃねぇよ」  寝息を立てるアリスを座席に座らせる。シートベルトを付けさせる。  アリスの頬に手をやろうとして、震え始める指を見てやめる。  俺に、アリスに触れる資格はない。  目を瞑る。強く強く瞑る。  俺は悪魔だった――だからアリスという天使は汚(けが)れた。  聖句を唱えた。俺の中の暗黒の神への聖句だった。呪わしくも聖なる呪文だった。俺は俺の暗黒の世界に独りきりの存在。ただ独りきりの孤独な闇の王。近づく者には不幸を。独りきりという絶対を穢す者には耐えがたき絶望を。だから俺は孤独で在り続ける。他人のために。自分のために。ようやく理解する。  押し寄せた絶望感。俺は絶望と友になっていた。二度と離れることのない友人が絶望だった。  すべてを片付けろ。そして足早に死を受け入れろ――アリスという存在が共にあったために俺は死を先延ばしにし続けていた。アリスという存在のためなら俺は簡単に死ぬことができる。 「……エリーゼ。これからお前を成仏させる」  車を飛ばす。240。243。246。速度感覚が麻痺する。その中で言う。 「望みを言え。なんでも叶えてやる。お前が心残りに思っていることを吐き出せ」  250。250。250。足は自然と止まる。俺に扱える速度上限。本能がわかっていた。舌打ちする。 「……なんでも、いいの?」 「ああ」  難しいなら尚良い。エリーゼの成仏と俺の死亡。二つのことが同時に為せる。俺は俺を殺せない。俺の拳は無敵。俺の身体は無敵。無敵と無敵の衝突イコール総てが無ではない。何も変わらない。だから俺じゃ俺は殺せない。  エリーゼの声を待つ。待ちきれなくなってエリーゼを盗み見る。 「…………皆に、アメリカ、ロサンゼルスの皆に」  その次の言葉を聞いて、俺は激しく世界を呪った。  この世界は光という闇黒でできている――新たな聖句を想った。  エリーゼは清らかだった。誰よりも純心だった。誰よりも世界を愛でていた。世界を美しいと見ていた。  いつまでもそう思っていてほしい。いつまでも天使のようであってほしい――俺は目に見えないものに嫉妬していた。 「……わかった。それで契約しよう」  エリーゼはロザリオを手に持って感謝を述べた。エリーゼは神と俺に感謝した。  笑い飛ばすべき神。エリーゼに愛を注がれ、しかしエリーゼの愛に応えなかった存在。アリスを見殺しにした存在――違う。 「俺が総てを壊した。俺がいなければ良かっただけ――孤独から逃れることを望んだ俺がいなければ、誰も不幸にならなかった」  日本語。母国語。エリーゼは首を傾げる。俺は精一杯穏やかに微笑んだ。     10.  キャラじゃねぇだろ――デッドヒィトの言葉は正しすぎた。嘲笑ってやることしかできない。  雨が降っている。俺が降らせている雨だ。紙の雨。紙幣の雨。金の雨。  クソどもは、この雨の前で醜く変わる。仕方がなかった。醜くなる必要が、彼らにはあるのだから。  俺は俺のやるべきことをした。その事実は変わらない。揺るがない。  振り返る。 「……契約は完了した。そうだな」  返答。頷き。俺がほしかった返答の端的表現。それ以上の事は欲しない。もうすこし醜い豚どもを見ようかと視線をはずし。  "ありがとう……"  呟きを、聞いた。  ありがとう――なんと輝かしく、なんと美しく、なんと汚くなく。  なんとうそ臭い言葉だろうか。  目を閉じる。  ――目を開ける。  金の雨は、降り止んでいた。  うそ臭い言葉の呟き主も、いなくなっていた。  雨の作る溜まりに群れる、醜い豚ども。俺が醜くした人間ども。  だから、俺が一番醜いのだろう。  足元に落ちていた紙幣を踏み潰し、俺はこの場から去ることを決めた。