きみがすき-involved- 水瀬愁 白ぅ神様の運営されていますL×SYMPHONY(ttp://zgmx.web.fc2.com/)様にて、初掲載させていただきました作品のミラーです。 小説評価機能は生きておりますので、感想投稿先の一つとしてご活用くださっても構いません。 ******************************************** 【タイトル】  きみがすき-involved- 【作者】  水瀬愁 【管理】  小説家になろう[ウメ研究所] 【ジャンル】  恋愛 【種別】  短編小説 【本文文字数】  27860文字 【あらすじ】  『ムカつくから、おまえのこと幸せにしたるわ。どや、超の付くどんでん返しっぷりにぶったまげたやろ』彼女はいじめれていた。そんなある日、いじめっ子は彼女に冴えなくて影が薄いキモヲタのクラスメイトに告白することを命じる。彼女は涙を流すほど嫌々ながら告白の言葉を紡ぐ。そして次の日、朝のホームルーム、この高校では見かけない超絶美少年が彼女に手を差し伸べてそう言った。――その運命のイタズラは、彼女の周りの状況を目まぐるしく変えていった。 注意 小説には著作権があります。この小説を無断で再配布・転載する事は著作権法で禁じられています。 (C)水瀬愁 ************************************************ 1.野獣は化けて、白馬の王子様が手を差し伸べる。(1) 「……」  彼女の目の前には、落書きされた彼女の机があった。  そんな彼女を遠巻きに見つめ、ニヤニヤする三人の女生徒がいる。  その三人以外に、彼女を見る者はいない。なぜなら、もう日常の一部であるからだ。  こんな、彼女へのいたずら――彼女の受けるイジメは。  彼女にとってもこれは日常的な、逃れられないいつもの事だ。  故に彼女は、いつもどおり俯き加減で教室の奥に向かう。  結果的に、あの三人の女生徒の方に目と鼻の先まで近づくこととなった。 「……」  後ろ黒板の下には、このクラスが所有する雑巾がぶら下げられている。  その高さは、膝まで。ならば当然、彼女は屈まなければならない。  彼女も他に思いつくことがなかったか、その当然な姿勢をゆっくりと取った。 「――ッ」  それを付け狙ったように、いや、付け狙ったとしか思えないタイミングで。  三人の内の一人の脚が、彼女の背中を踏みつけた。 「あ、ごっめ〜ん。居たんだ? 気づかなかったぁ」  軽く浮かせてゲシゲシ踏みながら言う台詞としては、些か以上におかしい。  しかし彼女は文句を一つも漏らさずに、蹴られたまま数分、その後にやっと雑巾を手に取って教室を飛び出す。  急がねばならない。先生は確か、HR開始のチャイムより早めに来るはずだから。  そう彼女は思う。しかし、廊下の突き当たりにある水道で奔流に翳された雑巾は、意味もなく水分を過剰摂取していった。  その水分は、もしかしたらほんの少しだけしょっぱいかもしれない。  でももしかしたらそのしょっぱさは、近くにある別の音を掻き消す水流に混ざって排水口に消えたかもしれない。  そんなことも、全て日常の一部であった。 $◇$  別の日かもしれない、ある日の事――  数学の授業であるのだが、教師は黒板を向いたまま解説を行うので生徒は非常にフリーダムとなる。  ひそひそ話どころか、ガヤガヤと騒いでいても叱らないのだから生徒がつけ上がっても仕方ない。  その中で彼女は、黙々淡々とノートにペンを走らせる。真剣に聞いている生徒は彼女くらいだ。なぜなら、ちょっとでもまじめな生徒はすぐに一レベル上の講座へ行ってしまうから。  落ちこぼれ、不良が集う最低レベルの講座。それが此処。  魔の手がまた彼女に伸び行くのも、ある種仕方のない環境である。 「あっ」  彼女が声をあげた。少し、痛みに呻くような色を帯びた声である。  彼女の手にあったペンはその瞬間に消えて、カラカラと音をたてて床を遠くまで転がった。そんな彼女の足元には、オレンジの輪ゴムがサッと舞い落ちる。  彼女の背中を睨む六つの目が、笑う。 「……」  彼女は黙りこくって、無表情を構築しなおしてそっと立ち上がった。  同じようにそっと、そっと歩む。六歩目で、ペンはすぐ近くに。屈み、拾おうとする。  そこまではいつもと同じ。次はちょっと違う。  彼女にとっては嬉しくも悲しくもあるわけでない出来事。  あの三人の女生徒にとっては、玩具の新しい遊び方の発見―― 「はい。これ」  彼女より早く、その男子学生はペンを拾った。そして彼女に、にっこり微笑んで差し伸べる。  少し予想外だったのか、彼女は目を真ん丸くして二秒近く固まる。その後、しどろもどろにぼそぼそと感謝の言葉を述べて彼女はペンを受け取った。  嬉しい気持ちはあまりない。それは、男子学生に受けた印象のせい。  物凄く――格好悪かったのだ。  メガネはずれていて、髪型は品が無くて、同じ制服を着ているのになんだかとてもダサく見える。  彼女は少し退いてしまったわけなのだ。うげっと口元が歪まなかっただけ、幸運である。  その一部始終を見る六つの瞳は、今まで以上に妖しく輝いていた。 $◇$  その同じ日の放課後、彼女は三人の女生徒とHR教室に残っていた。  他に誰もいない。女生徒達は、いつも以上にどうどうと彼女をいじめることができる。 「アンタがさ、数学の授業で話してた奴居んじゃん? あいつ、ヲタクらしいよ」 「なんか、そんな雰囲気出てるよね。ヲタク臭っていうか、ぶっちゃけキモ醜(しゅう)だけどぉ」  二人が言った。彼女と、残る一人は口を閉ざしたまま。 「――アンタ、あのキモヲタに告白しなさいよ」  そして、最後の一人が本題を切り出した。  彼女はえっ? と目を見開く。  三人の女生徒は、これ以上言うことはないという風に何も言いはしなかった。  それが彼女の疑問への、返答。 「……はい」  彼女は頷くしかなかった。 「ああ。それじゃあ明日、結果聞かせてね。キモ醜が移るとやだから、私らは帰るから」 「だからって、逃げ出したらどうなるかわかってるよな?」 「アンタの名前であいつに手紙出しといたから、ここで待ってたらすぐ来ると思うよ。じゃあ、頑張ってね」  彼女は頷いたモーションのまま、顔を上げられなかった。  そして、男子学生はやってきた。 「西村、さん?」  彼――松尾啓司はドアを開けながらそう言う。彼女はピクリとも動かない。  不審に思ったかそうでないのか、兎も角松尾はちょっと止まってからすたすたと彼女に歩み寄った。 「何、用って」 「……あのね」  彼女は震えていた。理由は彼女にしかわからない。 「私……わた、し……あ、あな、あなたの、こと、がっ――」  彼女は震えながら、泣いていた。  誰の目から見てもわかるくらい、ぽろぽろと。 「――好き。好きで、すっ」  言い切って、彼女は膝をついてしまう。  すでに、嗚咽をあげて泣き始めてしまっていた。  夕焼けに染まる教室。松尾は、まだ返答しない。 「いいよ」  そして、更に数分が過ぎた時、唐突にぽつりと漏らした。  来たとき同様、すたすたと教室から出て行く松尾。彼女は足音で、それを知る。 「う……ぇ、あ……ぐ……ぅッ!」  そのときにはもう、彼女は土下座するような格好で泣いてしまっていたから。  悲しくて悲しくて、つらくてつらくて、せめて付き合えないと言ってくれればいいのにそれさえ叶わず。  運命の女神がいるならば、このときの彼女ならその神の首を絞め殺していたかもしれなかった。  そして、憂鬱な次の日がやって来た。 $◇$  席に着く彼女。今日は机に落書きはなかった。  それ以上のお楽しみが、三人にはある――彼女は視線に耐えられなくて、縮みこんでしまっていた。 「よーっし、席に着けよ」  チャイムが鳴る。HRが始まる。先生が手を叩いて生徒を座らせる。  三人の予想外にも、松尾はまだ着ていなかった。欠席だろうか。三人は予想を裏切られ、彼女はほっとする。  松尾が来ないことで『もう搾り取ったのかよ、このエロ女』などと悪口を叩かれるかもしれなかったが、彼女にとっては松尾との交際がクラスで発表されてしまう可能性がこれで回避された気がしていた。延期になった、程度のことでしかないのではあるが。 「――すみません。遅れました」  先生が話を切り出そうとしたその時、ドアを開いて押し入ってくるソイツ。  皆があっと息を呑んだ。  勿論、彼女も三人の女生徒も例外ではない。 「松尾啓司です。自転車が壊れてしまったので、急遽徒歩での登校に切り替えたのですが遅れてしまいました」  ――松尾は、ガラリと変貌していた。  黙っていればスパイシーなクールさを感じさせ、女子を虜にする。口を開けば、第一印象とは違った優しげで穏やかな眼差しや仕草や口調に気づかされ、ギャップに魅力を感じざるをえない。  黒い前髪はウザいくらい目元に垂れ、彼自身ウザったく思っているのか視線がドキツくなっている。  ――超絶、の付く美少年である。  皆、ぽかんと口を開けてしまっていた。そんな中、松尾はトンットンッとよく響く足音をたてながら彼女の方へ。 「西村さん」  彼女の前へ。  一瞬、彼女の後ろにいる三人組を睨みつけ、松尾は彼女に優しく囁きかけた。 「ムカつくから、おまえのこと幸せにしたるわ」  どや、超の付くどんでん返しっぷりにぶったまげたやろ。そして松尾は、彼女に片手を差し出す。  ぽーっと見惚れてしまいながら、彼女はその手を取った。  その握り返し方は、シャルウイダンスの受け答えのような上品な手つきであった。 2.野獣は化けて、白馬の王子様が手を差し伸べる。(2)  それから、彼女の日常は変異した。  謂わば、薄幸から幸福へ。  謂わば、闇から光へ。  いじめっ子を意識していた教室は地獄のようだったけれど、今は打って変わって楽園みたい。  さらに、意識するのは松尾、彼ただ一人になった。  喜怒哀楽の風に言い表すならば、喜嬉|恥(・)楽。  恥ずかしいのは、ちょっと夢チックすぎるからか。 $◇$  たとえば、そう。  今もそんな、恥ずかしい夢チックな出来事の真っ最中。 「ま、松尾くん……? ち、近すぎない?」 「ふつーでしょ。それより、西村さんの持ってるその卵フルーツサンドって食べたことないんだよね。一口もらっていいかな」  中庭での昼食。返答も待たずに、松尾は西村のパンに齧り付いた。サッと目を逸らす西村の頬は、赤められている。  ――と、視線を逸らしたその先。  コソコソとこちらを覗いている目と、合った。  ふたつやよっつではない。大多数。妬みも含まれるその中で、西村の気を惹いたのは六つのみ。  それらは、西村が向いて直ぐに逃げるように去っていった。 「……」  トントン拍子で、幸せは肥大している。  いじめの無くなったことが、西村の胸を一番に打ったと言ってもいい。  ――松尾が何かしてくれたのかもしれないが、そうでないかもしれない。  そう思って聞こうとするも西村は、いつも松尾にリードされ、流されてしまってばかりいる。  嬉しいことばかりで胸が一杯になりがちだが、西村は少し悪い予感を感じていた。  彼ばかり見ているから楽園のようだと思ってしまっているけれど、元が地獄のようだったのは変わりないのだから。  幸せがどれだけ壊れやすいか、わからないけれどなんとなく不安になってしまう。 「あ、予鈴だ」  松尾が校舎を見上げた。西村も考え事から浮上する。 「もどらない、とね――」  そして、行こっか、と松尾に振り向こうとした。 「二人で悪い事、しよっか」  だが、別の力に引かれて西村は思うほか早く振り向く。  その顔は、ぽけーっとしていた。  いや、補足しよう。真っ赤でもあった。  理由は至極明白。目と鼻の先で、松尾がニヤリとすごく格好良い笑顔を浮かべたから。  悪い事。しかも二人っきりで。なんて甘美な響き――手を引っ張るでもなく数歩離れてわざわざ手を差し伸べてくる松尾。  意地悪だ、丁重に共犯者に歓迎してくれるつもりか。そして西村は、もう一つ狡いと思うところがある。  どれだけ格好良いんだ、あなたは。  そんな彼が恋人であるのかと、西村は胸が騒いでしまって仕方が無くなる。  何もかも変で、いつもどおりにできなくて、手当たり次第に分け目無く|喜嬉恥楽(どきどき)してしまって。  でも今はまだ、それは胸の内の燻りにすぎない。  いや――すぎなかった。  まず初めに、という風に西村は松尾の手を取った。  燻りは大きな大きな炎に燃え上がる。  それは、もしかしたらターボの火なのかもしれない。そうでなければ西村も、こんな風に学校を飛び出すことはなかっただろうから。  ということは、エンジンがかかったというわけで。ならば、アクセルが無くとも止まっているより幾分も目まぐるしく移り変わっていってしまうのは仕方ない事実。  西村はちょっと、この環境の変化に適応しきれるか不安(どきどき)だった。 $◇$  公園。  遊園地などに行けるとは元々思ってもいないけれど、公縁というのは普通すぎた。彼のような超絶美少年が居る背景としてはちょっと寂れているのではと感じなくもない。  ではどんななら似合うと言い切れるかとなれば、答えは異世界風味バリバリの舞踏会やらしか浮かばないのだけれど。  だが、西村は思っていた。打ちひしがれていた。 「はい、西村さん。味は俺のオススメなんだけど、苦手じゃないかな?」 「あ、うん。全然大丈夫だよ」  たとえ不似合いな背景の中にあっても――松尾は輝いている。  クレープを買いに走って、買ったらすぐさま駆け戻ってきた松尾。しかし、その顔には少しも疲労感が滲んでいなくて、それどころか「良かった」と嬉しげに笑ってすらいる。 「この公園。俺が昔遊んでいた所なんだ」 「へぇ。でも、滑り台も何もないよね」  きょろきょろと見回しても、見えるのは砂場と噴水くらい。規模が小さめというわけでもないのに、ここまで遊具がないのも稀であろう。  ――だがその時、  ふと、西村は思い至ったことがあった。  昔、ということは今(・)とは違うわけである。  もしかしたら学校でだけ、あんな(・・・)風だったのかもしれない。けれど、もしどこででも今日まではあんな(・・・)風であったのならば。  想像して、輝かしくもなんともない光景にうっと喉を詰まらせる西村。  自分が松尾の何に惚れていてここまで付いて来てしまっているのかを批評家チックな自分に突き詰められた、と言った感じ。  けれど西村は、心の内でぷるぷると首を横に振る。  ――顔で選んで何が悪い。  俗に言う開き直り、である風もしなくはない。だが西村の中では、それが結論と化したのであった。 「遊具も何も無い。けれど、たった一つ良い事があってね――」  松尾がもったいぶったように話す間に、その騒ぎはやって来た。  公園の寂れた様子とは異風なそのけたたましい音に、西村は驚く。  そして、振り向いた。その振り向いた先には。 「……サーカス?」  とても楽しげな光景が広がっていた。  玉を自由自在に宙に舞い上げるジャグラー。音楽をかき鳴らすピエロ。  カラフルな服を着込んだ者が数人、踊って歌って舞っているのである。  全員笑顔。つられて、西村も笑ってしまう。 「これが此処の主旨――凄いだろう?」  松尾は、我が物顔でそう鼻を鳴らした。  いや――  彼自身、此処を愛して止まないのかもしれない。  西村はそう思った途端、松尾が少し可愛らしく見えたのだった。  そして、終わりない喜曲に見えたその光景も、唐突にピエロもジャグラーもお辞儀したことで終了を迎えた。  なんだか、予想していたよりもあっという間の事。西村ははたとそう思ってしまう。 「――こんにちは」  松尾は、お辞儀する彼らに声をかけた。  彼らの内の一人、中年の男が顔をあげてパッと笑みを浮かべる。 「やあ、また観に来てくれていたんだね! 嬉しいよ!」  どうやら親しいらしい。西村は松尾と彼の顔を見比べながら、思う。  優しげながらも鋭利、そしてどこか淡い松尾の微笑を見て、彼はハハハッと頬を掻いた。 「バレてるか。まあ、君を騙すのは忍びなかったからねぇ……」 「やっぱり、短縮されたんですね――経費、そんなにヤバいんですか?」  西村は、何の話かあまりわからなかった。  けれど、松尾も彼らも悲しんでいることはわかって。  この公園が、余計に寂しく思えた。 $◇$  少ししたら、彼らは帰って行った。  残るのは二人。元に戻ったわけだけれど、心境の上ではちょっと違う。  仕方ないんだよ――彼らの内の一人が言った事。それは、至極当然のことであった。  料金のとれない、奉仕活動じみた公演。そんなことをする暇があったらどこかのパーティにでも派遣してショーをした方がよっぽど金になる。  自分で思い浮かべた文であれど、西村はそれがどれほど残酷か自ら思い知り胸をズキズキと痛めた。  松尾の前であれば、誰でもそうなってしまう。  超絶美少年は、笑顔が似合うならばこんな悲しい顔も似合ってしまう。  まるで愛する人の眠る墓の前にそっと立っているかのような、悲しげな無表情。ふと、呟いた。 「公演、ずっと此処で行われてたんだよ……昔っから、ずっと」  感じていること、考えていること、思っていること、その歯痒さや絶望は手に取るようにわかる。  だからこそ西村は、何も言えぬまま口を開けない。 「仕方ないんだよな。総て、移り変わっていってしまう」 「――ッ」  しかし松尾の今の一言で、何かは抑制域を超えた。  西村は、ぼぉっと公園を眺める松尾の前に仁王立ちする。  気づいたら、西村は無我夢中になって言い募っていた。  その内容は、西村自身すら頭が真っ白になっていてわからない。だから知っているのは松尾のみなのであるが、 「うん」  聞けばそう言って話そうとしない。  だが、松尾の表情から悲しみの色が消えたのは確かなこと。  言い放ちすぎた故の酸素不足もあって、ぜぇぜぇ息を荒くしながら西村は脳裏を疑問で埋め尽くす。  ――何を言った、と。  しかし、記録されなかった一部始終は見返すことができない。記録されていないのだから、至極当然の真実。  それでも、どうにもできないことをどうにかしようと、西村はもがく。  それは胸の内でのこと。体は、ピクリとも動かずに硬直してしまっている。  ちょうど、松尾をじっと見つめるみたいに。  対し松尾は、西村の視線を受け止めて直立。優しい眼差しで、見つめ返す。  故に――。  二人は見つめ合っているかのようだった。  まるで、恋人。  実際には、まるでも何も無いのだけれど。しかし、形式上において恋人とされる関係よりも、"まるで恋人"の方が可憐で美麗な発音と舌触りがする。  少なくとも松尾は、そんな乙女チックな感想を抱いていた。  でも今はまだ、それは胸の内の燻りにすぎない。  今は――まだ――。  時毎に華麗に吹き上がる噴水が、主軸の水柱の周りを踊ってキッカリ何時かを知らせた。  誰の目も向かない。其処には人が二人も居るけれど、決して誰の目にも見てもらえない。  恋人とはそういうものなのかもしれない。少なくとも二人にとっては。  目の前の相手がどうしようもないくらいに綺麗に見えて、惚れ込んでしまって仕方なくなるものであるのかもしれない。 3.野獣は化けて、白馬の王子様が手を差し伸べる。(3)  ある日の朝のことだった。  西村が登校すると、クラス中の視線が一箇所に集っていたのである。  つられて、西村もそちらへ目を向ける。 「――あ」  松尾が居た。  それに対峙する一人の女生徒の姿も見える。彼女の後ろでは、気迫を木端微塵に砕いて泣きじゃくる二人もいた。  三人の女生徒は、西村のよく知る人物であった。  見た途端にサッと血の気が引いてしまう、本来はそんな相手達。だが今日は、様子がおかしい。 「……松尾くん?」  西村の声。松尾が振り向いて、それに対峙する女生徒も視線を向けた。  彼女と西村が、目が合う。  咄嗟に西村は、松尾へ目を逸らす。 「西村さん。おはよう」  松尾は微笑みを浮かべながら西村に近寄った。  西村は頬を赤らめて、小さく頷きながらぼそぼそと挨拶の言葉を漏らす。 「……番犬め」  そして、松尾と対峙していた女生徒が嫌悪と怨望の総てを込めて松尾を"番犬"と称した。 $◇$  そんな異質的な事象も無視して、日常は強引に繋げられる。  二時間目。科目は数学。  テスト期間を経て席替えがあり、松尾と西村は運よく隣同士になった。列の中腹辺りであるが、そんなことは二人には関係ない。 「西村さん。この問題は、こう、こう、こうだから……」 「あ、そうなんだ」  良く言えば微笑ましい、悪く言えばバカップル。そんな風景。  そんな、二人だけの世界。  だが、別段おふざけな話をしているわけではなく、至極真っ当に授業への疑問を自分達で解消しようと頑張っているようにしか見えない。  二人自身もそう思っている。しかし一人は超絶美少年、言動一つ一つが空間をざわめかせてしまう程の有力者なのである。  勘繰って見れば、その二人の背景には花が咲き誇っているように思えなくも無いのだ。  そんな勘繰り見を行うのは当事者以外だけとは限らない。たとえば西村も、そう意識してしまって松尾にどきどきする者の一人。  まるで夢のようだ、と西村は思っている。    しかし西村は、ふと視線を感じる。  それは鋭く冷たく、刃のように西村の背中に突き刺さって幸せな気分を嵐のように吹き散らせた。 「(――誰?)」  思う。けれど振り向く勇気が出ない。  迷う内に五分かそこらが光の速さで過ぎて、授業終了を知らせるチャイムが鳴った。  途端、冷徹な凝視が外れる。嵐が過ぎ去ったことで胸の痞えがとれ、西村は長く細く息を吐き出して若干脱力。  そうした一瞬の隙がなければ、もしかしたら判明できたかもしれないが。  脱力から復帰した西村が振り向いた先には、もう誰も彼もが帰ってしまった後の空席しかなかった。 $◇$  誰だったのだろう。大小が計り知れない疑問と恐怖に西村は首を捻る。  前に見るのは、鏡に映る自分。  ちょっと視線を泳がせた先には個室の並ぶ殺風景な一面が見える。  それは、とても見苦しい。まるで色がない。  だが、此処にはこれでちょうどいい。妥当である。  なぜなら此処は、トイレだから。  所詮は出せるものが出せればいいのだ、とはさすがに言えないので、最低限許せる範囲での清潔さは欲しいものであるが。西村はぼぉっと考えに耽るあまり、思考が散漫してしまう。  ――と、その時。  さっき視線を泳がせたのとは別方向から、人がやって来た。  鏡越しに目が合って。 「あ……」  西村はサァッと青ざめて。  ――鏡越しの彼女は、サドっ気たっぷりの意地悪な笑みを浮かべて。  その彼女は、朝に松尾と対峙していた女生徒(いじめっこ)。  次の瞬間、西村は背中のど真ん中に衝撃を受けた。  手洗い場に頭を叩き込まれ、流れて音をたてていた水の直撃を受ける。  理解が追いつかないのか、まともに濡れ続けてしまう西村。もしかしたら、脚が竦んでしまっているのかもしれない。 「西村ぁ、あんたさ――」  とすれば、こうも彼女が愉悦の味ばかり食らってしまうのも仕方ないのだろうか。  彼女は西村の醜態に調子付いて、西村の後頭部に手を添えてぐいぐいと更に押し付けた。 「ウザいよ。男が上玉に化けたからって調子乗ってんじゃねぇよ。私らが話吹っ掛けたときはあんなにウザがってたのに良い娘(こ)面しちゃってるし」 「ッ!!」  理解が追いついたのか、西村は彼女の手を振り払って顔を上げた。  前髪から滴る水滴が邪魔なのか、次に西村の手は自らの額へ向かう。しかしその手は目標に辿り着かぬ。 「……良い度胸してんじゃない」  逸早く、彼女は雰囲気をより鋭く冷たく磨き抜いて応戦した。  それは圧倒と読むこともできる。彼女は西村を、振った腕一つで尻餅をつかせてしまったからだ。  それから西村が立ち上がることはない。彼女はすたすたと西村に歩み寄り、追い討ちをかけるつもりなのか再び腕を振るうための予備動作をとった。  その顔に浮かぶのは、ただただ嘲笑。  しかし――。  その腕が振るわれることはなかった。  その代わり、黒い衣類に包まれた長い脚がスッと伸びて彼女を西村と同じ目に合わす。 「……ビンゴ。やっぱ北乃城見張ってて良かった」  その主は、松尾。  双眸をギラつかせ、不動たる静寂を纏う殺気は細かな音をたてる蝿にさえ遠慮させる。 「西村さんも、間一髪のところで守れたみたいだし」  両ポケットに手を突っ込んだまま、松尾は西村に身を折り顔の高さを合わせて、微笑んだ。  ――ギョロリと、視線は北乃城と呼ばれた彼女に向かう。  北乃城はぽかんと開けた口を結び、威勢を取り戻して声を張り上げた。 「ば、バカだろお前!? ここ女子便所だぞ。変態野郎!!」 「――へぇ。それってさ、人殺しと比べてどっちの方が汚名?」  松尾は片手をポケットから抜いて、握りこむ。 「とりあえず、死体一つ転がしてから考えるかな」  対し北乃城は。 「――――ひ」  遂に、鋭い光の色を瞳から失せた。 「ひ……ぁ、や……ッ!」  涙をぽろぽろと流す。  取り戻した威勢がこうも簡単に崩れるのなら、それはもしかしたら虚勢だったのかもしれない。しかし実態を調べる術はもうない。実態を追求する必要もない。  ただ必要なのは――松尾にとって必要なのは。 「覚悟しろ」  必要なだけの数の、人口の減少。  人口といえど、個性による条件は存在している。  たとえば、気のあるもの。  北乃城のような、普段の情報上確定している存在とは違って、ほんの少しでも北乃城と同じような行動をしていそうな者がいたならば減少対象に入れる。  あとは悪口や、北乃城のするような事を計画している者。そんな類には、松尾は容赦しない。  どう容赦しないかは、西村の目の前で、一人目の対象者が――その身に味わってくれることだろう。 「覚悟しろ」  松尾が冷え切った瞬間であった。  しかし、またも鉄槌足り得る一撃は予備動作で寸止めされる。 「――」  やめて。西村はそう言いたげに、松尾の足にすがりついていた。  松尾が止まる。戸惑いによってか、気が薄まる。 「――う、ぁぁぁぁ!」  その一瞬を突いて、北乃城が手ですら床を蹴って、一目散に逃げ出した。  その音が遠ざかって、更に少ししてからおもむろに松尾は西村を見下ろす。 「なんで止めたの」 「……怒っちゃ、駄目なんだよ」  松尾はわからないと言う。西村は、文脈を無視してぶんぶんと首を横に振り、涙をためた目で訴えかけた。 「怒ったら、醜い自分が出てきて、怖くなっちゃうよ――私は、それが嫌。いじめられるのよりも、どんな不幸なことよりも、断然嫌」  だから、と前置き。西村は大きく長く息を吸って、嗚咽混じりに小さく細くその一言を溢した。  ――自分で決めたことだから、耐えられる。と。  松尾は、目を細めて何を思うか。 「……」  しかし、そっと西村に手を差し伸べて、立つための手助けをするだけだった。  今は。 $◇$  全ての教科が消化され、最初の下校ラッシュ。  第二は部活に励む皆々方の群れ。まるでゾンビが列を成しているようなのだろうな。と、北乃城は逞しく想像を膨らませながらプラットホームに足をかけた。  夏服であれど、その場は少し蒸し暑い。ギンギンに照る太陽のせいもあるのだろうが。  そしていつもどおりぐるりと見回して、いつもどおり彼女は一番人混みでない場所を探す。 「あ――」  そして、声が漏れた。  普段なら、目は向けても意識は路傍の小石ほどにも向けないであろう周囲。しかし、この日は違った。  たった一人だけ、彼女と目を合わせる者がいた。  スラリと長い足に、あの時の衝撃が一瞬だけ蘇って消える。 「……松尾」 「北乃城」  真っ直ぐこちらを見据えてくる松尾に、彼女はちょっと気圧されかける。  しかし、グッと踏み込んで松尾の一歩前に仁王立ちした。  自然と縮みそうになる身体と心。彼女は線路を無為に凝視して、必死に祈り込む。  もう雨に打たれて弱りきっている仔猫のようだよと、誰か口添えしてあげればいいのにと思えてしまう程の必死さだ。  だがそれも、停滞があるからこそである。それは言うなれば、松尾と彼女の冷戦。不干渉という干渉戦。  少なくとも今の状況を、彼女はそう思っていた。だけど松尾は違ったようだ。 「北乃城」 「ッ」  そっと、まるで躊躇無くゆるゆると、松尾は彼女の背中から前に腕を回した。  頬が触れそうで触れない距離。ちょうど彼女から死角で、でも吐息のほんのりとした暖かさは感じてしまう。  もどかしい。  どきどきする。  けれど、松尾が囁いたのはそんな気持ちを掃き捨てる一言であった。 「西村さんにはもう、手を出さないでくれ」  広がる虚無感。それは穴。  穿たれたその穴から感情がするすると抜け出ていくのに、彼女は光の弱まった目を細めていった。 「北乃城!!」  思う他無反応の彼女を振り向かせ、松尾は両肩を強く握る。再び訴えかけるつもりか、勢いよく息を吸って今まさに言葉を発さんと口を何らかの形に歪めた。  けれど、何か紡ぐことはない。それより早く、北乃城が松尾の胸に手を当てて、ひょいと押したのである。  彼我距離が開いた。 「……わかった」  そっぽ向いてぽつりとそう漏らす彼女。  松尾は思い連ねた言葉を持て余して、ゆっくりじわじわと口を閉ざした。  対し彼女は、表に現れぬ深い深い心の内で動揺していた。  彼の仕草。彼の一言。彼の瞳。  まるで逃れられないのは、一体なぜ――と。  今も尚こちらに向き続ける彼の目線に、必死に顔と意識を逸らしながら、彼女は熱っぽい鼓動を聞いていた。 $◇$  仔猫(キティ)。  松尾がその言葉を発して、隣で歩く西村が首をかしげた。 「どこに?」 「あ、いや」  松尾はなんでもないと、首を横に振る。  休日なこともあって、今日の二人はデートの真っ最中。  松尾はホストのようにチャラけ、西村はファッション誌に載せられていたものを無難に再現してみたような服装。その二つの光輝き具合は月とスッポンであり、もし二人が手を繋いでいなければ恋人とは見えぬほど不似合いであった。  だが、西村の容姿が悪いわけではない。学校で虐げられることはあれど、その顔立ちは整っていてセミロングの髪もファッションもそれに似合っていて、その三つが組み合うことで醸し出される穏やかな雰囲気は、一種の魅力に成り得ることだろう。  ならばなぜ、こうも不似合いに見えてしまうのか。その要因は、全面的に松尾にある。  前述したとおりの服装。何を塗っているのか、光を照り返している黒い髪。鋭く、異色的で、されど魅惑をそのまま色にしたかのような眼差し。  その全てが、喧騒を作る一要素にはまるで不似合い。だからこそ浮き出て、同じように浮くことはない西村とは天と地ほどの差が生まれてしまう。  本来ならばそれは壁であるけれど、当事者達によってその壁はもう打ち砕かれていると言っていい。  ――それが何かはもう前述している通り。あえて言う必要もないだろう。  兎も角、松尾は人混みの中であればあるほど強調される。  それによって西村は、誇らしくもあり、だけれど居心地悪い気持ちも味わっていた。 「(二人っきりの場所だったら、大丈夫なんだけど)」  強調されてもっと格好良く見える松尾に目を細める幸せを妥協したとして、たとえばサーカスの公園に遇った公園など。二人っきりであれば、違う幸せに巡り合えるではないかと期待してもいる。  そう考えた途端、西村はぽっと赤面した。  "違う幸せ"について心の内で言及してしまったのかもしれない。いわゆる自爆、というやつである。  その様に、独りでに表情を変えてわたわたと忙しなくしている西村を見て、松尾はまた口元を緩めてしまう。  仔猫、と。  そして二人は手を繋いだまま、喧騒の中を何処までも歩いていった。 4.恋情交錯トリップ  休み明けの月曜日――。 「いよいよ今週の水曜日に迫ってきた研修旅行ですが! まだコース班分けが終わっておりません!」  うちのクラスだけですよ! と、清純派体育会系な学級委員女子が少し目を吊り上げて唸った。  終わっていないといっても、時間をとれなかったこともあって、前の話し合いは一ヶ月も遡ることとなる。その時ですら大半は研修旅行の概要の説明に使われたのだから、十分な時間は無かったと言っていい。  学級委員もその事は承知しているのか、唸るのは一度だけで直ぐに話を進めた。  途端、クラス中がざわめき始める。懸案事項からすれば、これは当然であろう。  その内、もう一人の学級委員男子が黒板に六つ七つほど縦に線を引いた。出来上がった区画にそれぞれ、左手側から順にアルファベットを振ってある。 「それでは、各自記入しにきてください。班員数上限は六人です」  即座に、数人が立ち上がった。  普段から六人で組んでいる者はもう決まりなのだろう。またそのような場合は代表者一人が書きに来るのでもいいので、黒板前がそう混雑しなくて済むのであるが、まだ全ての区画が空欄であるのにどたどた走って争い合うような者が居て結局のところ煩くなってしまうのだった。  その第一波が過ぎて、少しの間が経ってから第二波が飛来する。  松尾と西村はそちらに属する者だった。  二人の名前の記入先は、F班。  班員は、学級委員二人と。 「……」  今、そっと名を刻み付けた北乃城と――。 $◇$ 「なんであんなつまらない班にするかな……ああー、東城とかのいる班も二人分空いてたのに!」 「文句言うくらいなら、付いてこなけりゃ良かったんだよ」  体育館裏。北乃城の次にF班に属すことを決めたその女子・京極|京(みやこ)が、ぶつくさと青空に向けて吐き捨てた。  北乃城は咥え煙草のまま、気の抜けた返事をする。  ――北乃城の微妙な異変は、休み明けの今日から突然であった。  休日中に何かあったのかと踏む京は、どんな想像をしたのか、少し北乃城を腫れ物扱いしている。  そして今回の北乃城の生返事には、京はドスを効かせた声を放つでもなく口を閉ざした。  静寂は、およそ三秒。それは北乃城への怒りを押し殺す、京の努力の時間。  次に京は、再びの生返事を予期しつつも強情に同じ話題を投げかけた。 「で、できるだけ班から離れてないとな! きっと、バカップルが蒸し暑くてつらいぜ。それに、松尾と西村も|できて(・・・)るし、ほんとめんどくさいったらねぇーな」  結局のところ、愚痴気味なのであるが。 「……そうだな」  対し北乃城は、先ほどよりも幾らか感情の籠もった相槌を返した。  しかし京には同じように聞こえたみたいだ。チッと舌打ちを漏らして、北乃城からそっと離れる。  北乃城は独りになった。 「…………そうだな」  京は気づかなかった。  北乃城の瞳の中で、暗い光が瞬く間に広まったことを。  その光は今、完全に失せた。あとに残るのは、まるで打ち砕かれた精神力の残骸のような虚ろさ。  そして、京が聞いたのと同じ相槌を口篭もった北乃城が、そっと頭を垂れた。 $◇$  修学旅行の初日は、晴天であった。  "修学"との差か、旅行先は大学。生徒達には、まるで遊び心のないスケジュールが知れ渡っている。  講義に、見学回り。午後に突入して、しばしの自由時間は生徒達にとって砂漠のオアシスのようなもの。  ――学校側も生徒の気持ちを汲んで、長めの自由時間にはこうルール付けがされてもいる。  大学から出ても良し。点呼の時間までには戻ること。  そして、大学まで生徒達を連れたバスは自由時間が始まって数分後に発進することとなっている。  多くの班はバスに乗り込んで、講義中とは真逆にワクワクウキウキして気分を高揚させてしまう。  なぜか。答えは簡単。  バスの向かう先が、遊園地(オアシス)であるから。  ――はしゃぐあまり蹴躓きそうになって、松尾に手を回される西村。  ――西村に似合いそうなキーホルダーを松尾が選んで、西村が逆をして、お互いに見せ合っている。  そのような矮小なドラマチックの数々を、班員は見せ付けられることとなる。  しかし、学級委員の二人も同じようにイチャイチャしている。詰まる所、やはり京の言葉通りというわけだ。  北乃城が顔をしかめる。  それは何の気持ちからか。  そんな北乃城への救いの手か、ただ気まぐれな運命のイタズラか。 「わっ、と」 「きゃ」  ――松尾と西村がたまらずに呻いた。  それも仕方あるまい。観覧車に続く大行列が、有名所であるジェットコースターを満喫し終えた大群の直撃を受けたのである。  北乃城は鬱陶しいと舌打ちしたい気持ちを内に秘める。  列は散り散りになったも同然。この流れにのって別班と合流するのも手かもしれない、北乃城は醒めたように目を据えて、思った。    ところが、突然、北乃城を人の奔流から引っ張り出す一つの手があった。  その感触がした瞬間、北乃城はそちらに目を向けてあっと息を呑む。  ――松尾ッ!?  松尾は北乃城を胸元に引き寄せて、人の奔流の中をぐいぐい押し進んでいった。  北乃城の心臓(こころ)は、とくんとくんと身体に合わないリズムを刻み出していた。  松尾の体温、松尾の芳香、松尾の感触。慣れないそれらが、北乃城を狂わせる――。  そして気づけば、北乃城はひょいと投げ込まれていた。  何処にか。北乃城は一瞬わからずに漠とするが、直ぐに理解する。  ――逆に、わからないことだらけになってしまったけれど。  北乃城が抱えている疑問の、代表をあえて示すとしたならば、これは欠かせないというものが二つある。  一つ、観覧車に乗ってしまっていること。  一つ、向かい側に松尾が居ること。 $◇$  居心地が悪い。そわそわする。  北乃城はそろりと松尾の方を盗み見た。  ――間違えた、とのことらしいが。  松尾は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。今にも頭を抱えそうだ。  心の声を代弁するなら「しまった……」だろうか。と、北乃城は心中で思ってむすっとする。  観覧車は昇り始めたばかりである。まだまだ、この時は続くだろう。  ――松尾の望みは、全く会話せぬまま自己嫌悪に陥り続けてこの時を終えることなのかもしれない。  しかし、それでは北乃城の納得がいく筈がない。 「……ねぇ」  北乃城はとりとめのない思考はとりとめのないままどうもできないと、時間を裂くことを止めて、兎も角口を開いた。  折角二人きりなのだから。と、松尾とは正反対のことを北乃城はもしかしたら思っているのかもしれない。 「やっぱり、西村といっしょに乗るつもりだったのか?」  そして、夢のようなこの時間をぶち壊すような一言を自ら呟くに至った。  内心で、北乃城はしまったと即座に後悔する。後悔しないはずがない。  しかし、表面上は意地悪げに松尾を見る小悪魔の表情を取り持つ。  ――北乃城の発言は、茶化したも同然だ。  軽い雰囲気なら、言われた相手は茶化すなよとでも言って話を切ろうとするだろう。その顔は少しは赤いかもしれない。その内心は、少しは茶化した側の思惑通りに恥ずかしがってしまっているかもしれない。  もし定型通りに事が運べば、北乃城は口を閉ざさざるを得なくなるような微妙な空気間に置かれることとなる。  しかし北乃城は、それでもいいのではと考え始めていた。  親しげには話せない、なら喧嘩腰のような会話なら出来るのではないか――たとえ望む形とは程遠くても、今はこの機会を丸々逃してしまうことのほうが重大な失態。その腹積もりのおかげか、北乃城は幾らか心の余裕をもって松尾の返答を待つことができた。  さあ、言えよ。と、体感する時の流れの遅さがもどかしくなってそんな大それた事まで思いながら、北乃城は上目遣いで松尾の唇を盗み見る。  そして――。 「ああ、そうだよ」  当然といえば当然の発言を、松尾はした。  北乃城もすぐに察する。  自分が当てはめていた定型とは、普通のカップルにおいてのことでしかない。松尾と西村は、それこそ踏むべきプロセスをすっ飛ばしたような全くのイレギュラーに見える。  超絶美少年と、普通過ぎるひ弱な少女。二人の恋が不自然な色をして輝いているとの事実は、あまりにも明白だ。  自分はなんて愚かなのだろう――北乃城は、打ちのめされた。  だが、北乃城を打ちのめしたのは、自身の愚かな算段だけではない。  松尾の言葉も、それにあたる。  松尾の当然といえば当然の発言は、北乃城の死の宣告と成り得る代物だったのである。 「……ッ…………」  北乃城は歯を食い縛った。  何に耐えるためにそうするのか、自身すらわからない。しかし怒りに似たような、頭を真っ白にする衝動が直ぐ近くに感じられはする。  自分はそれに耐えているのだろうか? 北乃城は疑問に思う。  なぜ耐えなければならぬのだろう。今まではそんなことはなかった。  怒りたいときに怒る。笑いたいときに笑う。キショいものはキショいと言うし、理屈も何もなしにムカつくことには反抗してきた。  北乃城はそういう生き様をもっていた。だから疑問なのだ。  なぜ耐えるのか――  こんな自分はありえてはならない。北乃城はゆるゆると、耐えるための力を抜く。  その力は別の物に変換されるはず。いや、変換されないはずがない。  なぜ耐えるのか――  変えるための力が、今生まれる。松尾についに訴えかけるのだ。  プラットホームでのようなことは、もう繰り返さない。力はそこにまで作用して、形作り、いつもどおりの自分を今此の場で猛させてくれるはずであるから。  北乃城の腕が松尾に伸びた。足も一歩を踏み出す。腰が浮く。  脱力の時は抜けた。ほうら、もうすぐそこだ。北乃城は、笑みすら浮かべそうなくらい愉快げにそう思った。 「――――好き」  なぜ耐えるのか――  心が壊れてしまえばもう恋焦がれる彼に手が伸ばせなくなって、余計に不幸のどん底へ落ちてしまうから。  突き放すでも、貶すでもない――それが北乃城の求めたリアル。  できればあのプラットホームで、現実にしたかった夢。 $◇$  プラットホームでのこと――  できれば殴り飛ばしてやりたかった。と、北乃城は思っていたつもりだった。  そんなこと誰が約束するかよ、とでも言ってやりたかった。そのはずだったのに。 「好き…………ッ!」  そうとは真反対のような、本当の気持ち。北乃城は松尾に抱きついて、振り絞るように小さくその二文字を囁いた。  観覧車は真上に昇り切り、落ち始めている。 「ごめんな。無理やわ」  ――直ぐ、と言っても過言ではない。松尾の返答は、とても迅速であった。  そして松尾は北乃城の肩を押して、ぷいと顔を逸らした。  突っぱねられた北乃城は、涙を散らすようにぶんぶんと首を横に振った。 「なんで!? あんな女のどこがええの? そりゃ、うちもあんたに似合う女には程遠いかもしれんけど、でもあんな女に負けてないつもりやで!?」 「勝ち負けやないねん。それに、似合う似合わんなんて外見のことやろ」  そんなもんクソくらえやで。不快げにそう吐き捨てる松尾。  松尾の瞳は、嫌悪を隠すことなく示していた。  好意的かの尺で言えばあきらかにマイナスを突っ走っている現状。俗に言う"地雷を踏んだ"とはこのこと。 「――――納得、できんわ」 「北乃城の納得なんか、誰も欲しがってないっちゅうねん」  問答無用に、断ち切る。北乃城は睨むように、松尾を見上げ続けた。  松尾はその容姿に似合うような無関心(クール)を気取って、北乃城を視界の隅にすら入れぬ。  ――が、耐えかねたのだろう、松尾は荒げた声でも発するかのように口を開けて北乃城に向き直った。 「って、泣いとんの!?」  しかし北乃城の予期しえなかった様子を見て、そのキャラも崩れる。 「え……?」  対し、北乃城も驚いていた。  言われるまで気づかなかったからだ。  戻ってくる感覚――頬を濡らすそれは、筋を幾つも作っていた。  涙なのであろう。  格好悪い。そう思って何を決め込んだか、北乃城はズズーッと鼻を啜った。  浮かべるのは、まさかの満面の笑み。 「――アンタに嫌われれば泣いちゃうくらいに、私、アンタのこと好きだから」  ――不敵な笑み、と呼ばれる物であるが。  まさに笑みに似合うようなその言葉は、涙をはらはら溢しながらの祈りのような告白と同じながらも、全く違う色をしていて。  少し、松尾の胸を高鳴らせた。 $◇$  観覧車が地上に着く。  真上に達してから下りるまでの間に、北乃城と松尾が交わした会話と言えば、女の子の髪はロングの方が好みかどうかくらい。  松尾が望むような、何も起こらない時間であったわけである。しかし、下りる瞬間になって、北乃城は笑みを浮かべて松尾に囁いた。 「私も変わるから――ムカつくから、アンタを幸せにできるくらいすっごい女になったる。ほんで、超の付くどんでん返しで、寝取り成功したるからな」  松尾は動揺を押し殺して、ぷいと顔を背ける。  そして、下りた後、復活した観覧車への大行列がどこまでも伸びていくのを見て北乃城は迷った。  左に行くか、右に行くか。  悩んだ挙句、左に決めた。そして北乃城はその一歩を踏み出す。  ――松尾と、距離が空いた。  え? とでも言いたげな顔をして北乃城があわてて松尾を見る。  そして、松尾が右に進んだのだとわかった。  行く先の方向を違えればどうなるか、前提を読み解けば容易に想像はつく。  ――北乃城の振り返る先、松尾は居ない。  なんとなく、松尾が右に進んだ理由はわかる気がする。だから北乃城は、少し寂しげな色をした瞳で真っ直ぐ前を向いて、自分の決めた道を行き始めた。  髪伸ばそうかな、などと他愛無い事を考えながら。 $◇$  右に進んだ先、観覧車から伸びる大行列の最後尾近くで松尾は西村に逢った。 「松尾くん」 「……あー。そのまま並んどったら良かったわ。そしたら、西村さんをここよりずっとずぅっと前の方に割り込ませられたのに」  松尾が自らの歩いてきた道を振り返る。西村は気にしなくて良いよと言った。  それを合図に、松尾は後悔の姿勢を解く。そしてすたすたと歩み寄り、西村の横についた。  まるで今更言う必要もない、と言う風に。  これもまたそうであるが、松尾は西村の腰に素早く手を回してもいた。  己の首筋に吐息を感じるまで、西村をぎゅうっと密着させるのは、すでに慣れた。西村はちょこんと松尾の肩に己の頭を預ける。 「高そうだね」 「ああ。夜だったら、眺めが最高なんだろうね」  他愛無い会話。二人はこれから、長い長い時間並んで、それと比べれば一瞬な観覧車の娯楽を満喫して。  思い出アルバムに載らないようなこそばゆい思い出を、作っていくように見えた。 5.本物、似せもの  西村は固まっていた。  その経緯は、遥か二時間前からであれど容易に説明できてしまうほどに密度が無い。  まず、西村は松尾と勉強していた。  丸々一時間、別に音沙汰もなく無難に図書室での時間を過ごして、ふと思いつきで帰路に着く。  西村の家の近くまでしゃべりながら歩いて、松尾と別れる。それは総合して一時間三十五分が経過した頃、西村のもとで起こった。  あえて一言で表すなら、イリーガル。  なんと西村が鍵を取り出すために探ったカバンの中には、松尾のノートが紛れ込んでいたのである。  あわてて松尾の後姿を追おうとするが、西村は見失う。  松尾は携帯を持っていないため、連絡手段はない。だが、手立てが潰えたわけではない。  西村は、何度か話題にして聞いていた松尾の自宅までのルートをすぐに思い起こし、たったっと駆け出した。  ――少し迷い、タイムロス。そして統合、二時間となる。  西村は今、松尾の家に踏み込んでいた。  玄関の戸が施錠されていなかったので、つい勢いで入ってきてしまったのだ。情けないことにも。  そして、運悪くも、西村を見つけたのは松尾啓司本人ではなく同居者であった。  現在に至る。  西村は、見つかって、硬直していた。  理由はそれだけではない。じっとこちらを見つめてくる双眸と、それが付属する顔立ちに原因はある。  ――美形。  おそらく、松尾啓司の兄であろう。クールアンドスパイシーの容貌は、無表情の色が更に研ぎ澄まされていて、より魅力的に仕上がっている。それは何よりも弟ではない証拠、生きた年数の差であるのは一目瞭然。  とは言うものの、老けてみえるわけでもない。"大人になった松尾啓司"と喩えるのが妥当、もっとデメリットな点が皆無であることを主張するならば"成長"も付け加えるといいかもしれない。 「――おとうと、啓司のお友達かな?」  テノールに似合わぬ声。まるで優しさが鈴の形をとって、チリンと鳴いたかの様。  そんなギャップも、松尾啓司のそれに類似しているかもしれないと西村は感じた。  しかし思考に浸るつづけるわけにもいかない。咄嗟に西村はコクコクと頷いてしまうが、間違いではないのだと思い至って、最後に意思を込めてゆっくりと首を縦に振った。  彼はその返答に、にっこり微笑んでとある方向を指差すのみ。  おそるおそる――西村は、そちらに向いた。 「わっ」  松尾啓司が、どキツく眉を顰めて仁王立ちしている。そう視認したときには、西村は強引に手を引かれて、啓司の方の松尾と玄関にまで戻る。  無人だったそこに入り込んで直ぐ、松尾は西村の耳元で囁いた。 「兄に近寄らないでくれ」  嫉妬のような苛立ちが含まれているわけでもない、ただただ冷酷な声色。ただ事ではないと予感したことで、西村はまたもぶんぶん首を縦に振ることとなる。  そんな、 研修旅行から二ヶ月程過ぎた頃の西村の、ノートを返しそびれた日は――始まりであった。 $◇$  ひそひそと囁き声が聞こえる。どうやら、とりあえず世間一般的な評価はクリアしたようだ。 「……ど、どうしたの?」  などと思っている内に、京が話しかけてきた。  まるで腫れ物扱いだ。北乃城はニッコリ笑った。 「どよ。いろいろモデルにしてさ、ちょっと調整してみたんだ」  制服は、地味に見えぬ程度まで整えられた。スカートの長さがそのままなのは妥協か、しかし座り方は清楚を意識したような丁寧なものである。  髪はふんわりと、そのまま下ろされていた。  京は、それら全てを"変貌"としか表現できない。その動揺は強いらしく、現に今は、北乃城がガサツでも暴虐的でもないお淑やかな笑みを浮かべた瞬間から、京はぽかんと口を開けて止まってしまった。  場所は教室。ホームルーム前の朝。京にとっても彼女にとっても、いつもどおり登校してきた場合の時間である。  ――松尾と西村は、ともにまだ登校してきていない。  そこが重要な考察である。少なくとも北乃城にとっては。 「……ッ」  そして、京の動揺が冷め切らぬうちに、北乃城にとって一世一代の大勝負に成り得る瞬間がやって来た。  北乃城は大きな音をたてて、立ち上がる。  視線の先には、登校して来たばかりの松尾が居た。  その隣には、当然というように西村の姿もある――北乃城はその瞬間に挫けてしまいそうになる。  元々注目されていたのだ。異質な動作で、北乃城は余計目を集めている。それの生む圧力は、北乃城の一瞬の隙に奔流で押し寄せてきている。  緊張に弱ければすでにもうアウトだった。強いというわけでもないが、北乃城には明確な決意がある。挫けずに済んだのも、それのおかげと言っていい。  ――北乃城は、重くしっかりと、一歩目を踏み込んだ。  二歩三歩は早い。北乃城は、松尾の目の前まで歩む。 「――好きや。付き合わん?」  猫撫でのようにも、挑発的なようにも聞こえる一声。そして、ゆるゆると手を差し出す。 $◇$  松尾は西村と帰路に着いていた。  しかし、沈黙だけが立ち込める。良い無言ではない。  別れる場所まで、来た。松尾は立ち止まる。西村は立ち止まらない。  西村は松尾を無視するかのように、とぼとぼと歩き続ける。  松尾は少し目を細めた。そして、帰路ではない方向に足を向けて、雑沓の中に消える。  西村は、お世辞にも人気があるとは言えない小道を進み続け。  ――止まった。  何を決め込んだのか、踵を返して松尾と別れた場所まで戻る。  そして西村は、駆け足で松尾の帰路を急いだ。  ――行き着く先、立ち止まった西村の目には松尾の家の玄関が映る。  西村はドアをノックした。  少しの間を置いて、ドアが家の内側から開かれた。西村の肩がドキンと跳ね上がる。  その理由は、啓司の方との約束事を思い返したからなのか、瞳に飲まれそうになったからなのか、その両方ともか。 「……あ、あの、松尾啓司くんに、ノートを渡したいんですけど」  そして、わたわたとしゃべる。その頬は少し赤く、その目は前を見れていない。 「嘘だろ――ほんとうは、俺に会いに来たんだろ」  対し返答は、西村の予想を裏切った。  前とは一風変わった、と西村は感じる。容貌に似合うものへ変わったとも言える。  理屈なく、危険を予期させる。しかし拒絶するには気がひける。  甘い毒薬――そんな喩えが思い浮かんで、すぐに消え失せた。  西村は二つの瞳を必死に、無我夢中になって見つめてしまっていたのだから。  彼は――松尾啓司の兄は、くすりと笑みを漏らす。 「入りなよ」 $◇$ 「俺は、誠司っていうの。よろしくね」 「あ、わ、わたしは――」  嘘を吐いた。本心とは違えど疑う余地など本来は無い、嘘。  しかしバレた。見通されていた。  ――だからこうなっている、と、上手く線にできないはずの事を呆けた思考で強引に繋いだ西村。  繋げられるはずがない。ベッドの縁に隣同士で座っている男女など、本来なら在り得ない。 「じゃあ、西村さんって呼ばせてもらおうかな。おとうとも、そう?」  誠司は優しげに話しかける。  まるで撫でるよう。西村は"うん"と頷く意識すらかき集められない。  しかし何とか返答できたようだ。 「へぇ――でも、おかしな話だよね。俺に似せてきたおとうとに、俺が似せるなんて」 「ぁ……それって、どういう……?」 「わからないかな。おとうとは、俺をモデルにしていめちぇんしたんだよ」  なんとなくわかる。西村は重ねてみて、類似点を幾らか見出した。 「だから、仕方ないんだよ」 「?」 「君が俺に惹かれてしまうこと。を言ってる」  心中を射抜くつもりの誠司の一言に、西村は吃驚してしまう。  それは図星と知らせる仕草としか、捉えようがないであろうものだった。  その反応に微笑を浮かべ、誠司は西村の腰に手を回した。  押し倒すつもりだろうか――雰囲気は、まるでそのようだった。  雰囲気は風船。  音をたてて騒ぐこともせずみるみる膨らみ、その内にたまるのは甘く刺激的で形で言えば"とろん"とした吐息であるだろう。  だからこそ、それは不似合いだった。 「……あなたがオリジナルだから、私はあなたに惹かれているんですか?」  すっとぼけた疑問。自分の事を他人に聞いているということだ。  さすがに、超絶じみた容貌の誠司は常人のごとく苦笑いを浮かべさせれる。 「きみが好きになったのは、俺の姿に似せたおとうとだろう? そんなガラクタより、俺のほうをずっと好きになってしまうのも仕方ないんじゃないかな」 「――似非、なのかもしれません」  筋は通っている。西村はそう思わされる。  ダイヤモンドとそれの人工のもの、やっぱり輝きは違ってしまうだろう。どれだけ忠実に再現しようとも追いつけぬ境地は、あってしまうものだ。  しかし、恋焦がれる理由はそんな勝ち負けに依存するのだろうか? 「でも、それだけじゃない――松尾くんは、ほんとに優しくって」  少なくとも西村の中では、少し違う。  自分を変えると言って、まず先に手本を見せてくれた――  そして、自分の力だけで頑張らなくていいという風に、変わる手伝いもしてくれた――それは、形が良かったから胸に響いてきたのかもしれないけれど、でも決して欠けていいピースじゃない。 「――努力してみたつもりやったのに、やっぱおとうとは追い越せへんのな」  もうお手上げ、という風に誠司が力なく笑った。  すでに三歩も西村との距離を空けている。  雰囲気は、針のさされた風船のようにパンッと消え失せた。当事者にその気がないのだから、当然といえば当然のことだ。 「松尾さ……誠司さんは、優しくないんですか?」 「全然や。おとうとに、そういう良(え)えとこは全部持ってかれたんでな」  そのくせ、似非でも俺くらいに格好好(よ)うなりおる。嘲る。西村は穏やかに、淡く微笑んだ。 「もう、帰ります――」 「ああ、うん」  二人、同時に立ち上がる。  しかし西村はガクッと片脚を折って、大きく傾いた。  誠司は咄嗟に手を伸ばすが、届かず、西村は蹴躓いた勢いのままベッドに倒れこんでしまった。  二秒ほど呆然として、誠司に向けて首を回す。 「……格好良い人といると、やっぱり緊張しちゃうものでして」 「は、はは」  渇いた笑い。西村も必死に作り笑いを浮かべて場の空気を濁す。  ――少し恥ずかしさがある。  それ以上に、もう一人の松尾は自分が蹴躓いたときにどうしてくれたかを思い出し、西村は恋焦がれる相手を再確認した。 $◇$  そして、松尾と別れたあの場所に戻ってきた。  夕刻ももう終わる。そろそろ真っ暗な夜が始まる。学生ながら急いで帰らねばならぬだろう。  そんなとき、西村もその目に映る者も足をゆるゆると止めてしまった。 「……ッ」  そして、六つの目がぶつかる。  西村のものがその内の二つ。西村の願いどおりが、さらに二つ。そして予想外が二つ。  ――北乃城。松尾の片腕に手を添えている。松尾も、西村の目線から隠すように北乃城の前へ歩み出ていた。  まるで恋人。"まるで"で終わらぬ予想であると、西村は心の奥底で少なからず感じていた。 「西村さん。約束を破って、兄に会ったんだね」  信じてたのに。松尾の瞳は冷め切っていた。声も冷め切っていた。容姿に似合っていた。 「でも、なんとなく予想はしてた――どれだけ努力してもやっぱり兄は追い越せないって、わかっていたから」  そしてもう一度、松尾は西村を呼んだ。  西村が今ここに来るまでに誰と会っていたかを言い当てたのと同じく、まるで見透かした心に直接刻み込むような、聞き逃すことの許されない一瞬。 「白紙に戻さないか……俺達の、関係」    ――そして。  松尾と西村が別れて。  北乃城と松尾が付き合いだして、馴染んで。  各部が調整されたそんな日常のまま、一度目のクリスマスも過ぎ、一度目の夏休みも終わり。  そのままぐるりと一周するかに思えた、九月三日―― 6.シンデレラは靴をのこさない  西村は、文化祭当日で賑わう校舎内を、数人の女生徒に連れまわされていた。  不穏な雰囲気はない、と思う。西村は、まだ把握できていない。  西村を先導する女生徒は「急げ、急げっ」と忙しなくしていて、聞ける様子ではない。 「あ、あの、どこ行くんですか!?」  しかし、棟を一つ移ったところで遠慮もできなくなった。西村は疑問を投げかける。  女生徒達のうち一人だけが西村に振り返って、ニヤリと笑った。  ただそれだけだった。  無反応に近き、反応の極薄。ブレーキをかけて抵抗するということが浮かばぬほど不安定な姿勢で大股に歩かせられながら、西村はえぇーっと不満の声が上がりそうな顔をしてその目尻に涙をためた。  同じ問いをもう一度繰り返しても良かったのに、西村は言葉を失ってされるがままとなる。  ――実の所、向かっている所にあてはあるのだ。  今居る棟の一番下には、体育館に通ずる唯一つの廊下が繋がっている。  そして体育館では、幾つもの部からの出し物が発表される予定のはず。  仕事の担当から、そのあたりのスケジュールを確認することはなかった。だがそれでも、小耳に挟んで記憶に留めてしまっていることが一つある。  ――演劇部のシンデレラの劇で、松尾啓司がゲスト出演する。  西村は、好いとも悪いともいいきれぬ予感を胸の奥底にぽたりと零した。奥底に留められていた記憶はそれに濡れて、滲んで、しかし確かにそこにあるまま、わけがわからなくなった。 $◇$  ――超絶美少年、との大好評が衰えを見せたことはない。  体育館は、大学の講演室に形状が似ている。客席の一番下は舞台の目の前で、俗に言う特等席というやつだ。  西村は舞台から一番遠い、入口近くに立っている。舞台は遥か彼方といっていいほど遠い。  なぜもっと前に行かないのかは、至極簡単。席の確保すらままならぬほど、超満員であるのだ。  人口密度に比例して、BGMをかき消すほどの熱狂的な声援は大音量を誇っている。しかし、舞台上の松尾はまるで聞こえていないかのようにシンデレラ役の北乃城だけを向いて役を演じ続ける。  矛先にされていなくても台詞が一つや二つは飛んでしまいそうであるのに、松尾は凄い。と、西村は自然と感心していた。 「そろそろ、ね」  北乃城がスポットライトの下から出て舞台裏に消えた瞬間、西村はまた手を引かれた。  劇に見惚れていたのもあって、先ほどよりも不安定な姿勢を強いられてしまう。蹴躓かなかったのはほとんど奇跡といえよう。  そして、垂れ幕の一部をかきあげてまで無理やり押し進んだ末、西村が連れてこられたのは舞台裏である。 「――あ、きたきた!」  異風な衣装を纏った者が多い中にも、西村と同じ制服を着る者もそれと同じくらいに多い。その内の一人が、女生徒達とその後ろを連れて歩かされた西村に気づき。 「メイクアップよ。松尾くんのシンデレラさんっ♪」  西村の手をぎゅうっと掴んで、目をきらきらさせた。  わけがわからないながらも少し悪い予感をおぼえた西村の視界の隅には、小悪魔的な笑みを浮かべる北乃城が映っていた。 $◇$  劇は最終幕。松尾は格好(ポーズ)をとっている。  それはとても重要だ。照明係だけでなく、音響係にすら指示を送る。最後の最後への突入の、一番最初を飾る構えなのである。  最終シーンでは、王子がシンデレラを后に迎える。  五分ほど、ちょっとしたダンスタイムを行う。その始まりの合図は松尾の役目になく、これから舞台に舞い戻るシンデレラの仕事だ。  シンデレラが"始まらせる"その一言を発するまで、松尾はピクリとも動かぬようにせねばならない。  これが地味に心苦しく困難なのだが、松尾は今はきちんとやり遂げられていた。練習の甲斐があってのことなのだろう。 「――」  そして、シンデレラがスポットライトを浴びた。  劇を行うこの体育館内は、大分暗い。故に、光闇の織り成す風景は、夜の雪景色に似た静かな神秘さを醸し出す。  前に雪景色を引き合いに出したが、もしそれで言うなら、シンデレラは、月の淡い光に照らされる、絨毯のように広く積もった雪が妥当であろう。  しかし松尾は、見惚れるでもなく驚愕した。唖然と、演劇のことなど頭の中から吹っ飛んでしまった。  なぜなら。 「――」  現れたシンデレラは北乃城ではなく、西村であったから。  硬直して見上げてくる松尾に、シンデレラ姿の西村は一歩一歩近寄った。  魔女は居ない。カボチャの馬車もない。けれど、そんなことは問題ではない。  本編でもそうだ。シンデレラは舞踏会には別の誰かに背中を押してもらったけれど、ガラスの靴も綺麗なドレスも、付ける者を着飾るだけで不可思議な力は持っていない。  王子の前へは自ら出向いた。童話だけでなく、今回もそう。 「――」  西村が王子に向いた。  髪が揺れる。ドレスのスカート部が揺れる。  瞳が向く、王子へと。  微笑むことのない顔も、同様に。  そこで松尾はふと、疑問に思った。  もしかしたら陶器なのかもしれない――それほどに、今の西村に微笑みのないことは致命的な欠陥に思えたのだ。  微笑みを浮かべてもらえるのならなんだって差し出してみせると、役も忘れて松尾は西村に一歩近寄る。  駆け出さなかったのはなぜか。理由は至極簡単。松尾はその一歩に力を込めて、二歩目から走り出そうと思っていたのだ。  だが一歩目で終わる。二歩目はない。 「さよなら」  気づいたから。気づかされてしまったから。  松尾はさっきまで気づいていなかった。西村との間には、見えなくて大きい亀裂が走っていることに。  二人を分断させるかの様――だが、何か不利益なことがあっただろうか。  西村は今、別れを告げた。たった四文字であれど。  対し松尾には、北乃城が居る。西村にはすでに、別れを告げたも同然である。  それぞれの道を歩いていくことに、それが一寸も交わらぬものであったとしても、何に悲しむ必要があるのだろうか。  その模範とも言うべき態度が、西村である。  西村は踵を返して、舞台袖に消えた。全く松尾に目も暮れない。松尾の返答どころか反応すらも、不必要であったのだろう。  対し松尾は、模範どころか、要所すら押さえない駄目な回答を示した。 「……」  まるで、振り返って来て、嘘だよとあっかんべーでもして、好きだよと頬をほんのり赤く染めてくれることを期待しているかのように――松尾の眼差しは、スポットライトの下から逃れた西村の残影を凝視し続けた。 7.さよなら  再会は偶然すぎるものだった。会社帰りのいつもの電車、一番気が抜けているときであるのも運命の皮肉だった。  気が抜ける、とはつまり心構えも何もないということ。あったものはといえば疲労感が多くを占め、生まれたものは驚愕が占めるでだろう。  ――驚愕を、もしかしたらよろこびと読むのかもしれない。  しかしその感情を抱いた松尾本人でさえ、真意は不明。だがなんとなく惹かれた。軽く会釈して別れてしまいたくはなかった。だから呼び止めて、近くのバーに誘った。断られる可能性もあった。松尾は、そうなるだろうと踏んでいた。  しかし応えは"イエス"  松尾は胸の奥がかっと熱くなるのを感じた。 「何年ぶりだろう……ええと、三年、くらいかな」 「だね。松尾くんがまだ地元に居たなんて、意外だったよ」  三年。それが過ぎて何が変わっただろう。松尾は振り返った。社会に浸りすぎて、言葉の訛りが一切合切無くなったことくらいしか浮かばなかった。その手元で、グラスの中の氷が音をたてる。  割ったウイスキーは、それでも濃度は高めであった。酔うに必要なアルコールが、抵抗力によっては一杯でも摂取できてしまうほどに。  さすがに松尾はそうも酔いやすくはない。だが、二杯三杯と進むにつれ頭の中に靄がかかっていったのも事実。  ほろ酔い加減はよく舌を回らせる効能を発揮させることもある。今の松尾が、ちょうどその事例。しかし、松尾の胸の内にはずっと動揺が燻り続けた。  理由は、西村が目の前にいることしか在り得ない。 「……」  出会ってから久方振りに、静寂の間が訪れる。松尾はそれを不快に思った。  世間話に花を咲かせるふりをして、本当に話したいことを打ち出せない自分に、ままならない歯痒さも感じた。  それは落ち着きのない態度に出る。今松尾が飲み干したグラスの中身は、二桁目にリーチをかけていた。  酒を啜る量が増え、松尾の五感の全てがぼんやりしていく。しかしそれでも、その隣の人物は変わらない。  夢ではない。夢であれば西村の輪郭は危うく、光も偽物でしかなくて、松尾が心を揺さぶられることはないはずだから。  それはつまり、困惑もせずに本物の西村に心を揺らしている事実を肯定しているということ。  西村の、大人びても本質は変わらぬ芳香に惑わされていること。その肯定でもある。  西村の、あどけなさの残る顔立ちに惹かれたこと。その肯定でもある。  それはつまり―― 「ねぇ、今もまだ、北乃城さんとは仲良くやっているの?」  松尾は現実に戻された。西村の問いかけから、不満げな声色を感じたのは妄想の類だろうか。 「ああ」  妄想でなければ嬉しい――そんな本心とは裏腹に、松尾はぽつりと一言漏らしていた。  へぇ、と驚くでも無関心すぎるわけでもない声を西村があげる。会話は途絶えた。  元々、松尾と西村の二人では話題にできぬ話題である。歯痒さとしか表現できないようなわずらわしさだけが、雰囲気を構成し、残り香になる。  残念ながら、松尾にはその芳香を消し去れるほどの話題が浮かばなかった。だから、そのまま本題に移った。  結果、芳香も何も吹き飛んだ。  松尾は西村の腰に手を回し、密着して、唇を唇に近づけた。 「なあ、西村さん。俺、離れて気づいたんだ。もう遅い、って絶望したけど、こうやって出会えたからもっと想ってしまった。なあ、俺たちの関係ってさ」  運命って思っていいかな――いや、そう思わせてくれ。  松尾は西村の唇を、自分の唇で塞ごうとした。  ありがとう。  単純でいて、真摯な一言だった。西村が言ったから、悲しいようにも聞こえた。松尾は問いかけでないのに、ゆっくりと肯定した。  あのね、松尾くんと別れた後も普通の生活が送れたんだよ。いじめられることは、それ以降、一回もなかったの。約束通りに、してくれたね。  約束。告白され、それを受けた日の翌日に、自分が宣言した事。その約束を達成するためだけに松尾は、優しい言葉を繕い、優しい態度を見繕い、自分さえも変えた――そんな時もあった。  ありがとう。  いつからだろう、と松尾は思う。いつからだろう、その気持ちが失せて本当に恋焦がれていたのは。少なくとも松尾が自身の本心を覚ったのは、靴も残さずにシンデレラが去った日であった。  ありがとう。  涙が溢れる  ありがとう。  涙が溢れる  ありがとう。  涙が溢れて、止まらない。  ばいばい。  暗めの喧騒が満ちる街。そこからはずれた、駅まで一直線に抜ける小道で。  松尾は、すずめの涙程度しかその下を照らせぬ古びた街灯を背に、西村に向き合っていた。 「ばいばい」  西村が言った。連絡手段を交わしたわけでもないから、このような偶然の再会がない限りもう会えないからだろう。もしかしたら、偶然が二度重なることすらもう在り得ないと思ってのことかもしれない。  そこまで思っているのは、ほんとうは松尾。西村も同じ考えなのではと思うも、それも松尾の抱く一種の期待でしかない。今の松尾には、西村の心が何一つ解らないのだ。 「……ばいばい」  松尾は返事した。"またね"なんて期待の光が一筋も差さぬ言葉で、である。  そしてその一言を機に、じっと見つめあって別れを惜しむ間もなく、西村が身を翻して歩み去る。  松尾はその背中を見送った。残り香があるわけでもない唇よりもずっと、心に刻み込む価値のあるものだったから。  だが――まるで松尾が見つめてきているのに気づいたかのように、西村が振り向いた。 「またね、義弟くんっ」  そして、悪戯っ子めいた、意地悪な口調でそう言った。  松尾は呆然としてしまって、返事ができない。その内に西村は去る。  一撃必殺の爆撃だった。と、我に返った松尾は力なく引き攣った苦笑いを浮かべた。  心の内に居た、"初恋の相手"の西村は、今の一撃で消えてしまった。だからばいばいは間違いだろうと、松尾も口の中で言い直す。  言葉にはならない。誰も聞かぬのだからそれでいい。 「……帰るか」  そして、西村が去ったとは反対の方向に歩き出す。何を思いついたのか、その手は懐から携帯を取り出す。画面を確認もせずにひとつふたつボタンをプッシュして、三秒と経たぬ間に通話―― 『もしもし?』  どこに繋がったのか、若い女の声が出る。松尾は携帯を耳に押し当てた。  言いたいことがあって、松尾はこうした。しかし、良い言葉が浮かばない。だから、率直に述べることとする。 「きみがすきだ、北乃城」 -end-