【タイトル】  ショートショートすと〜り〜ず【  静  】 【作者】  水瀬愁 【管理】  小説家になろう[ウメ研究所] 【ジャンル】  恋愛 【種別】  短編小説 【本文文字数】  1116文字 【あらすじ】  私に微笑んでくれて【いた】彼女。彼女の隣に【いた】彼。すべては過去。今にない。彼、私。この世界に残された我々は、どのように彼女の残影と渡り行けば良いのだろうか。私は今日も彼女の面影を求めて、彼女の思い出を噛み締める。その夜には、月が昇っていた―― 注意 小説には著作権があります。この小説を無断で再配布・転載する事は著作権法で禁じられています。 (C)水瀬愁 ************************************************  ただ一人――  ああ。と、感嘆する。  彼女の見入った月は、こんなにも神々しく夜の空で在りつづけている。  人の活気が衰え、静寂に包まれた世界がこんなにも穏やかだとは思いもしなかった。  自分の知らない世界が、今此処にある。  月明りが何かを、それこそ世界の全てを照らすことはない。消え入りそうで、それでも現実として今空にあるそれは穏かに私たちへ何かを伝えているように思えた。  すべての形容がこの絶景を損ねてしまうように思えて、恐ろしい。  捻った魔法瓶から、白い湯気が昇る。  夜に上る月へと手を伸ばすその湯気は、唐突に途切れていた。  届きはしない。どんなに手を伸ばそうとも。  口に押し当て流し込んだコーヒーは、若干苦かった。  月を見上げて、溜息を吐く。  彼女もこの位置で、この場所で、この空に上る、この月を、この感情とともに見上げていたのだろう。  その彼女も、月光のように曖昧な存在となってまでこの世に残り――私の目に入ることなく、今度こそ本当に消えたのだ。  私の伸ばした手が、月を掴み取った。  引き寄せ、開く――何もない。  何かがあるはずがないと、自嘲気味に笑い声をあげた。  こみ上げてくる寂しさを、月を見上げた彼女も感じたのだろうか。  彼女は、その感情をどうやって処理したのだろうか。 「違い、ますね……」  私と彼女には決定的に違いことがある。  彼女と私は同じ位置でこの月を見上げたことだろう。だが、彼女の隣には彼がいたはずだ。  そして、きっと――彼女が見入った絶景は、月光という曖昧な中で照らされる愛しき人。  皮肉だ。今更そんなことに気づく自分も、それを受け止めている自分も、それを平然と思える自分も。  私の隣には誰も居ない。彼女が彼を選んだ後も、彼女という残影だけを見て、彼女という香だけを思い出して、彼女の温かみだけを胸に秘めてきたからだ。  この世界も、彼女が微笑みとともに語らなかったら知ることがなかった景色だ。  こんなにも依存している私だから――この、静かなる夜空に寂しさを得てしまうのか。  ポケットに押し込んでいたヘッドホンを取り出す。耳に押し当てる。ひんやりとしたものが押し当てられる感覚を少しばかり受け流しつつ、発せられる音楽に耳を傾けた。  ベートーヴェン作曲《ピアノ・ソナタ》第14番嬰(えい)ハ短調 「月光」――この夜空に似合う旋律。  気迫。刺激。そんなものを必要としない。人を考えさせる、静寂と平穏の音の羅列。平穏という名の深く広大な海。その波音の旋律は、月の端々から漏れる光と同じ名を持つ曲。  今一度見上げた夜空に、溜息を吐いた。  もう少しだけ、考えを巡らせつつ空をながめていようと思った。  彼女の名残を感じて、私のこれからのことを考えて――静かなる月を、見つめて。  たった一人――