CROSS!〜物語は交差する〜 水瀬愁 いつにもまして長文です。二万五千文字です。三つにわけてもこの文字数はちょっと自嘲気味です。それでも、できれば余裕があるときに読んでくださると嬉しいです。それでは、ごゆっくりお楽しみください ******************************************** 【タイトル】  CROSS!〜物語は交差する〜 【作者】  水瀬愁 【管理】  小説家になろう[ウメ研究所] 【サブタイトル】  ♯11[  願  ]………………3(第12部分) 【ジャンル】  恋愛 【種別】  連載完結済[全127部分] 【本文文字数】  22677文字 【あらすじ】  舞台は現代風の孤島『風宮島』。主人公は季節を巡って愉快なヒロイン達との物語を築いていきます。一番の見所であるヒロインは、可愛さ溢れて10人以上!諸所に導入されているバトルロワイヤルも必見です。ほのぼので、ちょっぴりえっちなひと時を、味わってくださいね♪紡がれる、自分の心――届くことを、伝わることを願って――CROSS紡がれた、自分の心――届いた、伝わった、心――想い人との愛を育む力となることを願って――CROSS 注意 小説には著作権があります。この小説を無断で再配布・転載する事は著作権法で禁じられています。 (C)水瀬愁 ************************************************  物語は無数を越える無限で在る。  それと等しき数の人生の線が在る。  不幸か幸福か、在るのは痛み。  痛みと判断される過程は存在せず、それでも尚人生は痛みと表現される。  人生は傷つくものだと言われ、人は死ぬために生きるのだと言われ、その過程が儚く酷いと思わざるを得ない。  それを否定しはするが――理解はあった。  命がいくつあっても足りないとはこのことかもしれない、悩みに悩んでも悩み足らない。  どれだけ命と時間を削っても終わらない。体がぶっ壊れても、精神が崩れ去っても、終わりはしない。  その限界が死、神の判断に委ねられた規定。  そして気づく。人間は死ぬためでも傷つくためでもなく、守りたいものがあるから、この手で掴みたいものがあるから、生き続けるのだ。  何がぶっ壊れても、この思いだけは折れないと確信して。  その思い、あるからこそ想う。  ――主人公(ヒーロー)だと。  誰が主人公か、誰が出来損ないの主人公か、誰が傍観者か。  私は彼等を見続け、彼等が並んで歩くのを知り続け、尚もその視線は他方を向いていることに理解し続け。  複雑なのかもしれない。人は厄介な存在で、それは理性があるからこその不幸で、理性があるからこその幸福。  私は小さく微笑むだろう。複雑を解す、私の重ねた年の数を対価に得た言葉を胸に秘めて。  臨みは近いのか、定かではない直面感。  霧に隠された危機に親近感はないが、彼等はそれに悩み苦しむことになるだろう。  そのすべてが意味するのだ。  彼等は傍観者でも、出来損ないでもない。誰が主人公で、誰が主人公ではないなどということではなく、共通の事柄が彼等を主人公にする。  ――思い、両手で掴め。世界よりも、自分よりも大切だと思える存在を。  CROSS!〜物語は交差する〜♯11[  願  ]………………3  人とは環境に適応するのだと、しみじみと実感してしまった。  サウナに居るのかと思っていたほどだが、いつの間にか暑いと感じなくなってきている。  じめじめとした空気を一生懸命吸い込み、バスレクに耳を傾けて旅行気分を満喫する。  ――デイゴの花がなんとかかんとか。それは食えますか?  正直、紅芋か黒糖にしか興味はない。 「食い物は最終日だろう、女子にはこーゆー話が映えるのだろうがな」  親友はわかってくれていた。  少し深刻そうだが、ある程度話に絡んでくるので安心していいのだろう。  輝弥がバス内にいないのも関係しているのかもしれない。  ――何か企んでるのか?  また美姫姉たちに迷惑をかけることになるのかと思うと、胃がきりきりと痛みそうだ。 「……そういえば、轟壕とか誰と回ったんだ?」 「もうすこし文脈をもたせてくれ……話についていけなくなるぞ、将来は独りよがりだ」  ふと思った疑問をそのまま口に出してみる。  御劉は小さく眉を顰めた。  それよりも、将来をそんな簡単に予知されたら困るな。しかも独りよがり。あがり症か恋耐性ゼロの熱血野郎みたいだ。  そんな自分を思い浮かべ……吐きそうになって止める。 「……一人で入った。あんなところ、団体で入るほうが危険だ」 「お前にとっての危険は、世界消滅並だと思ってたんだがな」  おちゃらけに言ったつもりなのだが、なぜか御劉は目を細める。 「世界消滅……そんなものは私の障害になるわけでもなく私にとって世界救済ではなく世界再生のほうが成し遂げやすいのであって例え世界が消滅しようとも根本部分、つまり世界を創るユグドラシルが消えない限り私という固体は存在し続け――」 「それはそうと、平和資料館ってどんなんだろうなぁ?」  強引に話を切り替えられたことに、御劉が渋い顔をした。  俺としては理解不能な、次元違いの話をされても困るだけなのだ。洗脳の気がありそうな感じもしたし。  御劉は足元に手を伸ばすと、そこにあったショルダーバックの中身を探り始める。  少しして、俺に投げられたのはパンフレットだった。 「情報の先取りは情報部員の基礎だな、非公式新聞部の名が泣くぞ」 「……別に、俺は部員じゃないからな」 「最近では学校ホームページへの干渉も試みているのだ。上手くいけば宣伝バナー形式新聞をつけられるかもしれない、無論排除不可能の代物だがな」  ――いろんな意味で、近寄ってはならない存在だと思う。  そんな存在の親友なのにいろいろと不満があるが、すでに生徒会には特別マークされているので仕方ないのだろう。  パンフレットをぱらぱらとめくりつつ、規則的に並んだ木々を眺めた。  島にはなかった木――種類はわからない、だが広葉樹林ではないことはわかる。  遠くに来たのだと、改めて実感した。 「――見ないなら返せ」 「いや、見る。今から見るって」  同じく視界に入っていた御劉がジトっとした目で急かしてくる。  視線をパンフレットに落とし、内容を吟味した。  まず、コーナーがいくつか分かれている。もしかしたら自由時間になって個人個人で見学なのかもしれない。  回る人――何人か脳裏に浮かべた。  次のページに目を移す。  コーナーの説明。コーナーとコーナーの間は曖昧な区分らしく、内容を見なければどのコーナーだったのかはわからないだろう。スルーする。 「ここを回るのは、セレモニーを終えてからだろう。それまでに誘う友には目印をつけておけよ」 「目印って……それよりも、セレモニーてなんだ?」  御劉は深い深いため息を吐いた。思わず、吐かれている側がおろおろとしてしまうほど。  御劉の話てくれたことによると、黙祷とやらを捧げるらしい。 「――座禅とか、苦手なんだよな。欠伸しないよう気をつけないと」 「もし欠伸したら、全員に睨まれるだろうこと間違いナシだ」  ――悲しいことだが、普段から睨まれているのでそっちは大丈夫だろう。知人に睨まれるのは結構つらいが。  ふと、疑問が脳裏に咲いた。 「御劉は……誰と回るんだ?」  御劉はふむ、と言って顎を片手の人差し指と親指で押さえる。  だが、すぐにキリッとした顔つきに変わった。  その真剣みに、俺は思わず 「――予定はない」 「……顔つきとのギャップには一体どんな意味が?」  俺の反応に満足した様子の御劉に、俺は大きくため息を吐いた。  その時、どこからとは形容しがたい全方位から歓声が上がる。  何事か――御劉は窓から前方を見て目を細めた。  窓際ではない俺には何が何だかわからない。  その答えを、バスレク担当の生徒がマイクを持って叫んだ。 『――平和資料館、到着です! 午後も修学旅行をがんばっていきましょう!』  バス内での暑さはある程度抑えられていたらしい。  日射を直に浴びると――そう実感する。  セレモニーとやらの黙祷は外、涼しそうな館内を目の前にして数分間の地獄を味わうこととなった。  一気にぬるぬるとし始めた肌を恨めしく思いながら、移動する波に合わせて歩いているときのこと。 「――美夏?」  会話もせず、黙りこくって無心に歩いている知人をひとり、発見する。  ポニーテールが一歩ごとに小さく、虚しく揺れているように感じた。  美夏の肩をポン、と叩く。 「ゆっくり歩いてると紫外線の的だぞ? 戦場で気を抜いてはいけない、美夏隊員!」 「どういうノリだ? 隊長らしき人」 「こーゆーノリだ、スネーク」 「他人を乗らせる気がないように感じるが……」 「アラ、ナンノコト?」 「実は女男の気があったのか? お前らしい感じもするが結構ひくぞ?」 「俺らしいってどういうことだよ? お前の印象では俺は変態野郎だったというのか?」 「アラ、ナンノコト?」 「ワシはお前をそんな小娘に育てたつもりは無いっ!」 「しっかりと親の背中を見て育った娘になんと言う言い草だ」 「少子高齢化とか温暖化とか、世界は衰退していくなぁ」 「世界規模の話にするな……多分、お前がその原因とか中心だ」 「アラ、ナンノコト?」  美夏は疲れきったようにため息を漏らす。  心の中で拳を突き上げつつ、俺はにっこりと満面の笑みを浮かべた。 「こんなことしてる暇があったら、誰かにお誘いでもかけたらどうだ?」 「生憎、俺は恥ずかしがり屋さんでな……ってか、お前からそーゆー話題を降られることになるとは思わなかったぞ」 「恥ずかしがり屋さんは何を売ってるんだ?」 「心と愛情と嫉妬と憎しみと嫌悪と友情さっ!」 「……恥ずかしがり屋じゃないだろ、絶対」 「アラ、ナンノコト?」  ――さすがに無限ループになってきた。  美夏も疲労困憊、何をしたらこれだけ疲れるのだろう。 「お前から声をかけなくても、優衣や美姫さんは誘いに来るだろう?」 「――まぁ、な。今日はその日じゃないというか」  俺が言葉を濁しているのに食いつく美夏は、今になってはじめてまっすぐ顔を向けてくる。 「飛行機内でいろいろあってな……それが優衣から美姫に伝わってなんか支離滅裂とか生き別れというか、つまりはそんな感じで今日一日声かけられない、かけたくない。きっと死ぬ」 「……修学旅行で、貴様は一体何をやっているのだ」 「ちょっとハメはずすくらいどうってことないだろ?」 「はずしすぎだ、ダム造って常に放水している駄目駄目ほどに無駄で馬鹿だ」  ――美夏らしい例えだった。結構わかりにくい。 「話をもどすが……」 「計画のほうはどうなっているのだ、隊長?」 「もどしすぎだ」 「恥ずかしがり屋は羞恥を売りに経営すべきだと思う」 「もう少し後! というか屋違いだ」 「結局誰とも同行する予定は無いということだな?」  ――美夏ペースに乗せられてきた気がしなくもない。 「ないな……というか少しでも長く休憩したい。午前にはしゃぎすぎたのが堪えてる」 「――な、なら」  美夏は小さく息を詰まらせ、口を閉ざす。  だが、すぐに足を止めて俺へと怒涛の勢いで迫ってきた。 「わ、私も少しは修学旅行を楽しもうと思ってな。同行してくれていい……ぞ」  まるで炎がチンと消えるかのように、蚊の鳴き声に負けそうなほど小さな声で締めくくる美夏。  柄にもなく上目遣いで俺の様子を窺ってくるので――少々眉を顰める。  真剣な様子じゃないのを取り繕うとしているので、軽く返してやる。 「同行させていただきます、お姫様」  片腕を横に構え、軽くお辞儀をする。  ムスッとさせるはずが、なぜか視線を逸らして上の空な美夏。  ――ホームシックか?  風宮島から離れるなんて、こんな機会ぐらいだと思い当たる。  大分前に行った美夏へ追いつくため、俺は早足で美夏に向かった。  轟音が響く。  正式には、多分轟音の効果音。  薄暗い中に、赤い光が点滅した。  隣にいた美夏がビクッと身を強張らせる。  おそるおそるたずねた。 「……怖いのか?」 「ッ! 怖いはずが無いだろう馬鹿者!?」  弾ける様に言い返され肩を竦ませた。  本人は必死なようだが、できれば周りの奇怪な目を感じ取って欲しい。  小さく悲鳴をあげる人や、盛り上げるためにギャーギャー言う人はいるが、今にも失神しそうなほど涙目でおびえる人はいない。はず。  しがみつかれている側の俺に視線が向けられ、気まずく咳をしすぎてのどが痛みだした。  ――意外だ。  普段から強情で剛情な、戦乙女とまでいわれたりする美夏の新たな一面だった。 「そ、それにしてもまたリアルな人形だな! この汚れ具合とか人間らしい。あ、人形の無感情な瞳とか人間らしくないとかが怖いのか美夏は」 「……怖くないといっているだろっ」  声がわずかばかり小さくなった。  上擦ったりしているのが可哀想だが、すでに右腕が軋み上げられている。  ――去ろう。  この場から早く離れたほうがいい。  そう判断した俺は美夏を覗き込んだ。 「怖いんならさっさと次行こっか?」 「……怖くない」  ――駄々っ子の雰囲気がでてきた、気がする。  いつもの罵声を飛ばす気にもなれないようで、無心無感情平静平穏を保とうとしている。  仕方ないので突き方を変えることにした。 「俺が怖いんだよな〜。ほら、あーゆー暗いところがいきなり光ったりするの。下僕のおねがい聞いてくれるか?」 「う……まあ、仕方ないな」  美夏は俺から離れ、腰に手を当ててうんうんと頷いてみせる。 「お前がそういうなら、次に行ってやってもいい。感謝してくれよ、下僕」 「はいはい、ありがたき幸せでございますよ」  美夏はむっとする様子も見せず、せかせかと前に行こうとして止まった。  何事か――美夏はテケテケと歩いてくると、俺の横にちゃっかり寄り添ってくる。  呆然としている俺に、美夏は僅かに赤らんだ頬のままキッと睨んできた。 「下僕なのだから、主人をしっかり守るのだ!」 「……あ、そういうこと。うんうん、はいはい」  何かといろんなことに納得しつつ、美夏の肩に手を回し抱き寄せる。  はぅっ、という声が聞こえた気もするが、優先順位にランクインしない程度のことなので食いつかないほうがいいだろう。  できればこの先にあるものが恐怖とかの類じゃないことを――しっかりと願った。  そして、その希望は頑なに拒まれ完膚なきまでに粉砕される。  目の前に広がるのは普通といえるもの。詳細をいえば、少々古風に創られた展覧場。  ちょっと薄暗かったりして見難いと思うのだが、隣にいる――正確にはまるで一心同体にでもなろうとするかのようにガシッと抱きついてくる――美夏にとっては違うようだ。  俺の腕に絡められた二本の腕が、その絡みをさらに強める。  涙目でキョロキョロとする美夏に、俺はおそるおそる尋ねた。 「……何が怖いんだ?」 「………………雰囲気、とか、薄暗いの、嫌い……」  素直に答えてしまうほど崩壊寸前らしい。  さすがにヤヴァく感じた俺は、脳内に叩き込んだはずのパンフレットを引っ張り出した。 「ここが最後のコーナー『太平洋の要石』だから、抜けたら多分ロビー。歩ける?」 「………………うん」  いつもの強気は大洪水にでも流されたのか、か細い声で小さく鳴いた。  同時に、更に美夏の体が密着してくる。  すでに腕との空洞はないのではないかと思うほど、ちらちらと濡れた瞳で上目遣いされるのも、結構どぎまぎしてしまう。  動きにくいと思いながらも、なぜか拒む気にもなれず、仕方なく歩みを続ける。 「あれだ。怖いと思うから怖くなる、ということで別のことを考えよう。な?」 「………………」  コクリ、と頷いてはいるが、深刻な感は否めない事実のようで。  仕方なく、雰囲気自体を変えるために一世一代の人生踏み外しをすることにした。  テレビでやっていた恋人同士のように、美夏の腰に手を当てようとして思わず躊躇した。  なんとか根性を振り絞り、髪を撫でるに踏みとどまる。  視線をあらぬ方向へ向け身構えるが――何の反応も返ってこなかった。  打撃音や衝撃や痛覚を痺れさせる刺激やらを予想していたのだが……いや、俺は別に望んでいたとかじゃなくて……  恐る恐る視線をもどす。  ――そのとき。 「はぅっっっっっっっ!!」 「わっ!?」  まるで爆発したかのように大声をあげた美夏。  ついでに煙のようなものを吹き出して真っ赤になったりして……煙? 「美夏!?」 「はぅっ! はぅっ!! は――」 「ストップ! 言葉通り真っ赤に燃え上がって爆死しそう! 心を強く持ちなさい!!」 「……う、うう」  ふらふらとしながら全体重を預けてくるので、両腕で抱きとめる。  顔色を確かめるために覗き込むと、目の焦点が合ったらしい美夏と視線が混じった。 「……」 「……」 「………………」 「………………」 「………………はぅ」 「なんでまた煙上げるかなこの娘はっ!」  仕方なく美夏を抱きかかえる。  予想以上の軽さと、自分からの密着。  いつもとは違うからか、美夏が美少女なのだということがしみじみと感じられてしまった。  ……でもそれは望まれていなくて。  美夏は美夏らしく生きていきたいはずなのに、その容姿や家系が周囲の架空印象となって美夏を苦しめる。  美夏は良い娘だった。断言できる。  他人の期待を裏切れないから、俺にしかその本性をみせることができなかった。  ――表と、裏。  俺や優衣に対しての態度が地の裏だとしたら、可憐で人に崇められる戦乙女が表。  こいつの、他人に対する態度を盗み見たことがあるが……痛々しいと思えた。  裏がわかっているから、だからこそわかる。  いつか、美夏は壊れてしまうんじゃないかと。  せめて――美夏の自由となりたい。  行き場をなくし、鎮まる炎ではない。大きく燃え上がるための抜け道になりたい。  息継ぎさせる暇を、美夏に与えたかった。  ――本当に、見ていられない馬鹿だ。  俺は抱きかかえる者の暖かさをしっかりと抱きしめ、小さく微笑んだ。  夢だと気づいた。  蜃気楼のような、セビア色の記憶。  色あせていた。  過去の自分は、こんなにも色あせていた。  そして――間違っていた。  それでも、今の自分は間違っている。  自覚していて、間違い続けている。  なぜなら――引き返す道がないのだから。  後ろも、左も、右も、存在しない。  ただ前があり、深みがあるだけ。  取り戻せはしなかった、自分であろうとする心は。  期待を裏切る――そんな生易しいことのために、私は自分を二分しているのではない。  もっと黒かった。もっと残酷だった。そして――とても馬鹿らしかった。  それでも、私は鳥かごから外を眺める小鳥で。  抗うことを忘れ、示すことを忘れ。  すべてに臨機応変ではなく、すべてに理解あるのではなく、すべてに絶望し、諦めた。  そんなどうでもいいなかで――ただ一人だけを想う。  自分が自分らしくいられる、この鳥かごから見える景色――彼。  それだけで十分だと思い、本心から微笑むことはできないだろうと思った、彼にすらも微笑めない。  上辺だった。自分を演じ続けていた存在、親に気に入られ親に虐げられ親に失望され、本心となることを根本的な部分から拒絶された人形。  私は人形だった。  私は鳥かごに住まう鳥だった。  すべてが――色あせていった。  買い食いはよかったのだろうか。  ――手に持ったコーヒー缶を啜りつつ思う。  何馬鹿なことを。今更何を。などと野次がとぶこと間違いナシだ。  なぜそんなことを考えたかというと、暇だからだ。  当然平和資料館で見学していないところもあるのだから、全部回れば時間は不足するほどに消費できる。  ――隣で、気持ちよさそうに寝ている美夏が、気を利かせて早く起きてくれればの話だが。  横目で、美夏の顔をのぞき見る。 「…………すぅ………………」  俺の視線に気づくことなく眠り続けるお姫様が一名。  惜しげもなくその体を俺の肩に預けていた。  ――まあその体勢にしたのは俺なのだが。  涼しいクーラーの冷気もしっかり感じありがたく思って懺悔をする暇もないくらい、居心地が悪かった。  コーヒーの味も単調になり、気を紛らわせてはくれない。  どうしたものか――そのとき、美夏が身動ぎした。 「っ……」  思わず声をあげて離れたくなる、こそばゆい感覚。  柔らかく暖かい弾力が間近に、というか触れている。  それ自身が動くのは、ある意味攻撃的な刺激だ。  ぐっと強張る間に、美夏の目蓋がゆっくりと持ち上げられる。  焦点が合っていないのか、ぼぉっとした様子で俺を見つめてきた。 「……起きたなら、離れてくれる?」  ぶっきらぼうにするつもりはなかったのだが、自然とイラついた言い方になってしまう。  意識が覚醒しないままらしい美夏は、眠そうに目蓋を擦った。 「……むぐぅ」 「お前はネコか」  ぱふっと俺の胸に顔を沈め、すりすりしてくる美夏。  とんとんと背中を叩いてやると、ふにゃっと柔らかい笑みで見上げてきた。  ――こんな表情もするのか。  呆然と美夏の顔を見つめていると、美夏がきょとんとして首を傾げる。 「……何?」  俺は首を傾げ返す。  美夏は俺から離れ、人差し指を唇に当ててう〜んと唸った。 「……なんで、私はここにいるのだ? なんで、貴様と抱きついたり――」  そのとき、瞳の焦点が合って完全覚醒した。  第一声は――声にならない声。  柄にもなく、俺から距離を置いて頬を赤める美夏。 「途中でお前がのぼせたりするから……って、風邪なのか?」  今更になって気づく。  風邪でなくても疲れでしんどかったりしたのかもしれない、俺はそんなことも気づかずに一方的にしゃべって……もしかしたら俺と一緒に回ろうっていたのも俺への気遣い…… 「悪い、気づいてやれなくて――じゃあ、バスもどって休むか?」  バス内はクーラーがあまり効いていないかもしれない。ならここで休むのが一番なのかも。  所持金を思い浮かべ、缶コーヒーを買った自動販売機の場所を浮かべる。  だが、美夏は両手をぱたぱたと振ってきた。 「だ、大丈夫。うん。疲れてるのは皆も同じ、お前もだろう? この程度で根を上げては十分楽しめない」  熱心に言い募る美夏が無理しているように見え、余計に心配になる。  美夏は怒涛の勢いで口を開いた。 「お、お前は下僕なんだから、主人がいいといったらいいんだ! だまってついて来い、うん」  そこになってなぜかしゅんと縮こまり、上目遣いで俺の表情を探ってくる美夏。  ――風邪、とかじゃないのか。  美夏も純粋に、この修学旅行で無駄を創りたくないのだろう。  俺はにやりと笑って美夏の片手を取った。 「了解しました、お嬢様」 「ッ!? ――わ、わかれば、それでいい」  視線を泳がせてぶつぶつと言う美夏は――正直、おもしろい。  にやにやとしている俺を見るとその瞳をきつくする。 「さあ、さっさと次に行くぞ! 時間は足りんのだからな」 「はいはい……」  せかせかと俺から距離を離していく美夏を眺める。  数歩先になって歩みを止めると、恐る恐るといった風に俺へと振り返った。  俺と目が合うと、恥ずかしそうに前へと向き直り歩みを再開する。  自然に笑みを浮かべそうになり、美夏の瞳のきつさを思い出して肩をすくめる。  ――これも、いいかな。  美夏らしい。おしとやかにされても対応に困るし、こういう風に純粋に話せる関係が一番だと思う。  どちらがどちらかに気を遣うのも、かったるい。  そう結論付けると、我が儘なお嬢様の元へと駆けたのだった。  タバコの味がわからない大人はいないと思う。  コーヒーと同じく、苦いと思うが美味い。そんなもの。  それを理解せずにぐちぐちと禁煙をすすめられるのも――少しかったるくなる。  そんなことを考えながら、私はスタンド灰皿を視線で探す。  ――ないのか。  手に持ったタバコを恨めしそうに睨み、仕方なくポケットの中へもどす。  今いるのはロビー。なんとか他の教師等との雑談を抜け出してきたところ。  もうすこし娯楽系統のものは――教師が言ってはいけない、か。  そんなとき、ひとつの知った姿を見つけた。  駆け寄るのではなく、そちらへ歩の方向を決め――固まる。  私の知り合い、教え子は男性だ。  男性というより、まだまだ青い少年。  だが、たまにだが悩める人を助けられるセンスを持っていたり、適度で純粋な優しさがある。  好意的でなく、悪意的でなく、意図的でなく、下心もなく、ただ純粋な天然的行動。  人を引き寄せる判断力も兼ね備えてはいるが、普段の姿はどうみても女の尻に敷かれるタイプ。  兄が妹を助けたりするのはかっこいい、だが日常的には妹のほうが圧制。でも、妹にとって兄は将来越すことのできないもので理想であり信じられる人間――こんな例えが適当だろうか。  つまり、適度なのだ。  ずっと一緒にいるのでもなく、離れすぎているのでもなく、考えていないようで考えていたり、見ていないようで見ていたりするのが彼の魅力だろう。  ――言葉に表現しにくい。かったるい。  そんなこんなで、かったるい対象の教え子が目の前で居心地悪そうに辺りをキョロキョロと見回していた。  ――咄嗟に物影へ隠れたのが幸いだ。  隠れる理由はないとは言い切れない。今の状況では隠れるほうが良い。  そろ〜っと教え子を覗いた。  慌しく缶コーヒーを啜り、咳払いをしている。  注目の的は彼自身ではないのだが、やはり彼自身にも目を向けられるのは仕方ないのだろう。  ――女の子を肩に添わせているのだから。  まず第一印象では、推理小説でいきなり中間部分を読んだような感じ。  探るように思考回路を活動させざるを得ない――むむぅ、授業の集中をしない者が、世間や実践に関して頭がいいのはこーゆー理由なのか。  第二に思うことは、男子側のことだろう。  現在の状況から男が若い、青い、女ったらしだということがわかる。  だが、容姿的には……ギャップがありすぎる。  今一度眺めると、結構色男じゃないのか。  ――幼い系、童顔。そんな感じ。  まあ、常に授業で顔を合わせている私にとってこいつは全然そんな感じじゃないのだが。  というより、口が悪い。タバコの一本や二本吸ってもかまわないだろう――まあ、昼休みに吸っていたのはさすがに悪いと思うけど。  反面教師としてがんばっていると正当化しておこう。 「青春だな……」  思春期だということはわかっていたが、ムードとかがあると考えるとやはり夜。  だというのに、二人っきりだとかそーゆーことすら無視して公衆の場で、何ラブラブフィールドを展開しているのか。  ――いや、現実をしっかり直視しろ。  じっくりと見ていると、女の子は眠っているようだ。  女の子が起きないよう心遣っているようなわが教え子。  ――また何か天然的優善行動をしているのか。  愛情や友情、感情の向きを引き寄せる才能とでも言おうか。  彼という歯車を中心に成り立っていることは重々承知している。  彼の友人――御劉と輝弥だったか――も、彼の魅力に引き寄せられたのだろう。  妹さんが彼の傍を離れない理由もそこかもしれない。  思春期には、反抗期も同時に訪れる。  兄と妹の二人暮らし、男女なのだからもうすこしギクシャクしていたりお互いに喧嘩していたりするはずなのだが、いたって平穏のブラコン家族だ。  ――あるいは、過去に衝撃的な悲劇でもあったのか。  例えばだが、幼い頃に妹が独りぼっちになるようなことがあったりして、そのときずっと傍にいたのが彼だったのかもしれない。ありえる。  兄離れは終わるどころか、初恋と同じ程伸びるのかもしれない――などと踏んでいる。  その周りに居る者たちにも同じような感情を向けられているだろうし、それでもこの場が保たれているのは――彼の天然っぷりと周りの度胸のなさが幸いしているのか。  まあ初恋だし、結構傍にいるみたいだし、告白を深くは考えていないのもまたしかり。 「なんかかったるいな……」  劇的な変化もなく、数えるのもやめた咳払いにも聞き飽きた。  ふと現在の時間をしるために腕時計へ目を落とす。  ――外に行くか。  馬鹿でかい直方体の石があっただろう、あれに刻み込まれた名前を見ていくのも悪くない。一回来れるかどうかなのだから。  遥か未来、それでも迫ってきた未来を思い浮かべて小さく微笑んだ。  彼をもう一度しっかりと視界に収め、身を翻す。  ――今日は暑くなりそうだ。  入梅の心配はあるが、今はどんよりとした雲だけで保たれている。  天気は誰か身近なものの心情に例えられると、聞いたことがある。  なら、このどんよりとした天気は誰の心情なのか。それとも、誰か達なのか。  ――タバコが吸いたい。  ゆっくりと館内から外へと踏み出した。 「……」 「……どうした、愚民」 「……ついに愚民に格下げか」 「そ、そういう意味で言ったんじゃ――ッ!?」  こけそうになった美夏の腰に手を当て、支えてやる。  ジト目で唸りながら、きっちりと両足を踏み鳴らした。  ――螺旋状に伸びる階段の、二・三段上で。 「……も、もうすこししたら着く! 着くはずだ! というかあんまり歩いてないじゃないか!!」 「……それでも誰にも会わないほど、やっぱり人気なんだろうな『エレベーター』」 「ぐっ!?」  言葉を詰まらせた美夏は口をパクパクとさせ、結局は何もいわずに階段をがしがしと駆け上がっていく。  小さく肩をすくめ、その後を追った。  コースを見ていえば、ここを上りに来た生徒はすでに下り始めているころだろう。  ……エレベーターが怖いなんていう娘が、この世に存在するのか。  実在することは、目の前の少女からわかる。数分前のことなのだが。  そろそろ変わり映えしない階段に見飽きたところで、聞こえてくる足音のテンポが変化した。  連続した連なり。自分のものではない足音。  その音源は今にも見えなくなりそうな距離を今も駆け上がる美夏だった。 「いきなりどうした……?」  仕方なく俺も駆け上がる。  無限なのではないかと考えが掠めて数秒、単調な足音の旋律が止んだ。  俺と、美夏と。  視界をあげ、思うことはひとつ。  ――頂上、か。  階段は俺の足元で終わり、壁ガラスからは歩いた分の高さからの眺めが覗ける。  数瞬先に着いていただろう美夏はその向こうを食い入るように見つめていた。 「眺め、結構良いじゃんか」  美夏の隣に立ち、遠くを見渡す。  黙祷を捧げたときに立っていたと思われる崖の全てを見ることができた。  間近より迫力が足りないが、その大きさや角度を改めてすごいと感じる。  悲しいことに、崖に当たる水しぶきは見ることができない。  ――潮が引いている、だったか。  それでも絶景といえる眺めだった。 「……きれいだな。とても、とても爽快な眺めだ。都会には存在しない」  美夏は小さくつぶやくと、俺へと顔を向け一歩下がった。  髪が小さく舞い上がる。  美しい笑みが俺を見つめる。 「きてよかったか?」 「ああ、きてよかった。本当に……今がどうとか、そんなことは関係ない。お前と来れてよかった」 「……恥ずかしいこといってんなよ」 「そうだな。私もそう思う」  ――今日は、調子が狂う。  いつもの刺々しさがない。前にもこんなことがあった気もする。  美夏の表情に影が差すが、それに目を見張る間に表情が笑みにもどされた。 「お前は、私の最高の下僕だ。下僕でいるのがもったいないほどに、良いやつだ」 「……どうしたんだ、美夏?」  いつもの調子どころか、今にも泣きそうな笑顔を浮かべている美夏。  切なく、悲しく、寂しい。まるでもう二度と会えないかのような、別れの瞬間。  思わず美夏の顔を覗き込んだ。 「でも、下僕じゃ嫌だと思わないか? お前は、それでいいと思っているのか?」 「――俺が前に言ったよな、それ」 「そうだったか」  乾いた笑み。  俺は微笑み返すことはできなかった。 「もう一度、言ってくれないか? そうすれば――決心できるから」 「……」  何を、とは言えない。  多分、いまの俺に言えることはひとつなんだろう。  そして俺は――小さく首を振った。  横に。 「言わない。下僕でかまわない」 「――ッ!?」  俺は声を荒げようとする美夏を抱きしめる。  言葉を繋げた。 「そうすれば、お前は笑っていられる。そうすれば、お前はお前でいられる。 みんなの前みたいなお前には――会いたくない」  無機質な、翼の折れた天使。  そんな言葉の似合う、世界に飽きた人間。  ――美夏のもつ、顔。 「俺を罵るのもかまわない。笑顔を見せてくれるなら、お前の鬱憤全部吐き出してくれるなら。だから、お前にそんなこと言わせない」  返答すら、言わせない。  自分が満足いくまで美夏を抱きしめ、ゆっくりと離れさせた。  赤らんだ頬を押さえ、一歩また一歩と離れていく。  潤んだ瞳で、本当の微笑みを浮かべた。 「……ひどいな」 「お前よりかは、ましだ」 「……貴様は暖かいから、離れられなくなる。変わるわけにはいかないのに。変わるしか、ない。 お前の――せいだ」  小さく嗚咽をあげ、美夏は口を閉ざす。  俺はそれをまっすぐと見つめ、言う。 「あんなお前のままでいてほしくない。お前らしくないんだよ、全部。 俺の前でだけでは――本当のお前でいてほしい。俺の好きなのは本当のお前だ。お前の意思じゃなく、本質を選ばせてもらう」 「……それなら、仕方ないな」 「ああ、仕方ない。全部仕方ない。お前があんなお前になっていたのも何かあるのだろうし、俺の口出しできる範囲じゃない。 不可抗力、戻れない道、そんなやつだ。それくらいはわかってる。 でも――お前は望んでない、断言する。『俺を下僕と呼ぶ美夏』は『みんなの象徴たる戦乙女』とは違う。俺が保証する」  美夏の頬を涙が伝う。  だが、それでも嬉しそうな笑みを俺に見せ続けた。  一歩、また一歩と俺へと踏み出される――  ◆◆  行き交う人々――  顔のない人々――  本当の私を知らない、くだらない友人――  本当の私を知ろうともしない、くだらない両親――  私のくだらない上辺を褒める、腐った心の人間――  色あせていた。全部が全部、白く色あせていた。  光を持たない白、白の中に黒が隠され。同じ白の背景で蠢く。  くだらない時間の流れで、くだらない時間浪費をして、くだらなく生きている。  全部壊れてほしかった。まるで檻か鳥かごのような、こんな自分から抜け出したかった。  そして今日も春を迎える。  何度目の春、美しく残酷に私を美化させる桜は、ひらりはらりと舞い落ちた。  いつだったか、ある日のこと。  入学式だったと記憶している。  軽量のカバンを胸に抱きしめ、優雅にコツコツと歩いていた。  通りかかり、私を抜かしていく生徒たちは私へと挨拶をしてくる。  好奇心と希望、見ほれていると断言できる瞳で。  私は一回一回小さくお辞儀を返していた。  確か体育館で集まるのだったと思うが、そんなことも気にせず会話し続ける生徒の組がひとつ。  その一人が私を見つけると、会話のネタに投入された。  気づかぬ振りをして会話を盗み聞く。 「……だよね〜、さすが『戦乙女』さん。可愛いというより絶対美しいとか、優雅とかが似合う女性。同い年とは思えないし〜」 「階級が違うって言うか。そういえば、本当にブルジョワ階級の人らしいよ」 「だからあんなに綺麗なのか〜、手が届かないよね〜。話しかけるのも恐れ多いって言うか」  ……勝手にいろいろといってくれる。  私を型にはめ、私を美化し、私に幻想をみているのは自分たちだろう。  全部、親も友達もクラスメイトも、自分以外の全部がくだらない色メガネをつけていた。  だから演じるしかない。  型に沿った自分を構成し、もう一人の自分とする必要性があった。  そして私は、そのとおりに笑みを浮かべ挨拶の言葉をかける。  見ほれるような、呆然とした言葉を返してきたので、私は今一度歩き始めた。  背後での会話が大きく盛り上がり、耳が痛くなる。  ――このときの私は、何もわかっていなかった。  ――日常が、永遠ではないことを。  ――だから、絶望していたのだろう。  目と鼻の先に体育館が現れたとき、大声が響いた。  誰かの名前を呼ぶ、ソプラノトーンの声。 「祐夜く〜ん、どこに行っちゃったんですか〜?」  お世辞にも胸が張っているとは言えない、不安でいっぱいな声。  私はキョロキョロと辺りを見回した。  見つけたのは、音源ではないだろう男子生徒。  それはひたすらに走っていて、数人の生徒に追われているようで――あれは風紀委員なのか?  ――というより、こっちに来てないか!?  思わず腰を引いてしまう。  その間に、手の届くところまできてしまった男子生徒。  小さく後ろを振り返り、舌打ちすると――私を抱えあげた。  そう確認すると行動が起きてしまう。 「な、なにするんですか!?」 「今はだまって! あとで何でも聞く――御劉! 状況報告を!!」  男子生徒の耳元にある、丸薬ほどの黒い鉄。  そこからノイズが響いた。 『お前のところにいっているやつ、レベルとしてはイージーほどだな。三人、さらに二人。計五人だ』 「今両手がふさがってる! 逃避経路を提示してくれ!」 『……上に来い』  プツンと切れる音が響き、男子生徒は苦しい笑みを浮かべる。 「しっかり掴まってろ……よっ!」 「ッ!?」  男子生徒の体に押しつぶされる錯覚――息が詰まった。  抵抗することも忘れ縮こまった私を抱えたまま、右に左に道を曲がりはじめる。  遠心力があるのか、大きな揺れに翻弄されながらもなんとか意識を保つ。  少しして辺りから音が消えた。静寂の場に来たのだと察する。  荒い息遣いが髪に当たる。 「追尾されてもいない。逃げ切ったな、さすが我が同志」 「……こんなところにいるとは、さすがにわからんだろう」 「それよりも。貴様に女の子を拉致する趣味があったのかどうか記憶しかねるのだが……その腕に抱きかかえられているのはお前の餌か?」  自分の腰周りから視線を動かした。  薄暗い、湿気によって少しずつカビが生え始めた板。  少し首を動かすと、焼却炉が目に映った。  同時に、その上へ腰を下ろしていた一人の少年へ。  整った顔立ち、異様な雰囲気と未知の深みを持ち合わせた暗い魅力を持った――もう一人の男子生徒。  不敵な笑みが、私を抱える男子生徒ではなく、私へと向けられた。 「お姫様が、ご説明を欲していらっしゃるぞ」 「え?」  すっとんきょんな声が頭上から響く。  私の視界に暗みが差し、見下ろされていることを知った。  無意識に、首の位置をもどして見上げる。 「あ〜、大丈夫か? 悪いな、こんなところまで連れてきちゃって」 「……いえ、大丈夫です。 ですけど、一体何でここに?」  できるだけ冷静に、いつもの威厳と清麗を保った返答をする。  聞きたいことは山ほどあったが、行動の重要さは深く理解していた。  全ての行動が『今』だけに干渉するものではない。  いろいろな尾びれがあって、『未来』を大きく揺さぶることも在る。  いま私が恐れているのは、人の噂。  噂の伝達力、内容の正確さ、悪いことはさらに悪く、良いことはさらに良く、大きく美化される。  それは魔王や勇者、化学兵器よりも恐ろしいものだ。 「……えっと、言っていいのか、な?」 「言っていい。というか知ったとしてもこの少女には、それを伝えたりする意思はないだろう」  苦笑。  穏やかな瞳に吸い込まれる錯覚。自然と自分の心から波が去っていく。  その瞳で私を見下ろしている男子生徒は、丁重に私を立たせた。  一歩、二歩と離れられ、体が冷えることに気づく。  ――暖かかったな。  心臓の音を思い出すと、自分の心拍が跳ね上がりそうになる。  ぼおっとした目で彼を見つめていたことに気づき、心を強く叱った。 「ほら、今日って入学式――俺とこいつにとっては進級式なんだけど」 「……私も、あなたと同じ学年ですけど」  目を丸くした男子学生に、もう一人の男子学生が噴出す。 「笑うなよ……で、簡単に言うと、硬く緊張した風宮学園中学新一年生に一泡……もとい、どでかい花火で大歓迎しようと思ってな」 「……そんなイベント、ありましたっけ?」  首をかしげる。  お祭り好きな風見学園は、体育祭に文化祭、卒業パーティにクリスマスパーティと揃っているが、入学式にイベントはなかったと思うのだが。  焼却炉に座っていた男子生徒が立ち上がった。 「我々の素晴らしいアイデアを、風紀委員及び生徒会は、あろうことか一瞬で切り捨てたのだ。それはもう悲しいくらいにざっぱりと!」  ――それはひどい。  生徒の平穏に努めるべき生徒会が、議決する猶予なく切り捨てるなどあっていいのか。  だが、私の頭に手を置いた穏やかな笑みを浮かべる男子生徒は、あきれたように言った。 「OKされるはずはないんだし、こいつが勝手に正当化してるだけだから気にしないで」 「何をいう! 『入学式場に爆弾やら演出光やらミラーボールやらを設置して大きくビックリさせよう、もとい盛り上げよう』という作戦のどこが悪いのだ、良いところしかないだろう」 「全部悪いっ!」 「え、ええと、つまりは……妨害工作のようなものかしら?」  私は割り込むように、怪しいと思い始めた男子学生に尋ねる。  不敵な笑みのまま、首を横に振る。 「妨害どころか、歓迎だ。歓迎工作とよんでくれ」 「……でも、していることは妨害工作と同等なのではないですか?」 「まったく、素人はこれだから困るのだ。この違いがわからないのか!」 「わからないといいますか、本当にするつもりですの?」 「当たり前だ。大いに歓迎して喜んでいただこうとする在校生からの贈り物、贈らねばなんのためにある!? すでにもう仕掛けは万全の大勢にある。抜かりはない!」 「……」 「……まあ、こんなやつだ。無視したほうがいいぞ」  苦笑いしか返せない。  それはそうと、と前置きした男子生徒は、自らの胸へと片手を添える。 「俺はドナテルロセイバー。もとい御劉と名乗る者だ。今後ともこの天然鈍感馬鹿善男子生徒をよろしく頼む」 「俺のことか? 俺のことなのか? なら怒らないとな、覚悟しろよ?」 「御劉さんと……どちらさま?」  脱線回数が多すぎる。  なんとなく会話の仕方がわかってきた気がする。疲れるということが……  私を抱えてきてくれた男子生徒は、私へと笑いかける。 「三井。三井 祐夜だ。みんなからは祐夜とか呼ばれてる。妹がいるんでな、名字では呼ばないでくれ」  そうにっこりと笑いかけてきた、祐夜。  ――その日だったのだ。  ――色あせた世界で、光を見つけたのは。   ――小さいけど、純粋で、暖かい光。  ――世界で冷え切った心を溶かすには、十分すぎる光だった。  ◆◆  俺は美夏の手を取った。  断崖に当たる波の音が、次第に気にならなくなる。  まっすぐと俺を見つめ返す瞳には俺が映り、自然と目が離せなくなる。  思考回路の欠如――白い霧に隠されたような、麻痺。  零という距離を求めて、自然と前屈みになっていく。  吸い込まれる幻覚、停止の方法もなにもない。  ただあるがままに、感情のあるままに――  はっきりと伝えられる距離で、美夏を覗き込んだ。  できるだけいつもどおりに、それでもAffectionの想いを込めて。  美夏の頬に――口付けを交わす。 「……」 「……」 「……え?」 「いや。え? って何?」 「あ、いや、何でも――そう、何でもないんだ。そうかそうか、ほっぺたかぁ。うんうん、アハハ……」  美夏は呆然とつぶやくと、ぎこちない笑みを浮かべ―― 「…………馬鹿」  拗ねたように言い放った。  舞うようにして駆ける美夏は、ゆるやかに振り返る。  明るい、輝く笑みを浮かべて。 「さっさと行くぞ。時間は足りないんだからな――のろまな下僕は切り捨ててやる」 「はいはい、今行くよ」  いつもの関係。  ひどい言われようも、なぜか笑みを浮かべて受け流せてしまう。  それからは振り返ることなく、道の角へ行った美夏を追いかけるため、一歩を踏み出した。  その一歩は――どんな想いとあるのだろうか。  俺は無慈悲に歩き続ける。  恋事情に浮かれている自分が消えうせ、チェスの盤を眺めるような自分がいた。  冷徹、冷静、極悪、戦略的――目標のものを見つける。  足の向きを僅かに修正した。  人並みからはずれた、ロビーの隅。  幼い顔立ちを見据え、立ち止まった。 「やあ、御劉。そっちもフリーかい? こっちも誘ってくれる人がいなくてね……」  地面に腰を下ろし、片手でクイーンを玩ぶ輝弥。  爽やかな笑みに迎えられながらも、無表情を変化させるには至らない。  俺はその横へ身を移し、散らばった駒を並べはじめた。  輝弥も同じように駒を立て、一瞬にして初局を迎える。 「初手は?」 「お前が先手を取ることが今までにあったか?」  輝弥はクスクスと笑う。 「今日の気分は、そうじゃないんだよね」  輝弥の兵士(ポーン)が前進する。  ふむ、と声を漏らして己の駒へ目を落とした。 「少々だが、変わったな。何か良いことでもあったか?」  ……コト。 「人間は、毎日を生きる中で視点の変化を生むんだよ。ひとつの景色でも何千もの感想がある、それと同じさ。些細なことで変わってしまう。些細なことが積もり積もって、山となる」  ……コト。 「それは同感だ。積もりに積もったものはすでに足掻けるものじゃなくなっている、不思議なことだな。今まで恐怖の対象にならなかったはずのものも、いつのまにか危機になっている」  ……コト。 「そういうことだよ。僕は僕だ、それは変わらない。でも、気分とかそんなごく総量のことが違うだけ。君もそうだろう?」  …………コト。 「そういうお前は、何があった?」  ……コト。 「なんのことかな? ただ、ここという場所に来たことで気が滅入っているだけだよ、人の罪や傷跡を知って、現代を生きる僕たちはどんなことをしなければいけないのかを考えているんだ」  コト。 「それよりもまず、お前は自分自身をしらないとな。シンデレラが何を望んでいるかすらわかっていない王子は間抜けだぞ?」  ……………… 「なんのこと、かな?」  俺は立ち上がる。  輝弥の、屈託ない笑みを見下して――言う。 「チェックメイト」  盤上の戦局。  考えも、戦略もなしに打たれた駒の数々。  それが、輝弥の心情――答えだった。 『それでは〜皆の集〜! 今日一日の勇敢で迅速かつ、素晴らしい一日。そのすべてに〜かんぱぁぁぁぁぁぁぁぁぁああいっ!!』  耳が張り裂けそうな大声。  マイクが壊れそうな音を響かせた。  感度なしでいいんじゃないか――冷水を啜る。  盛り上がりきったテンションで、投入されるは更なる興奮剤。  ――バーベキューの肉どもだ。  他の席、テーブルでは大きく歓声が上がり、弱肉強食をはじめている。  だが、ここの席は一味も二味も違う雰囲気だ。 「祐夜くん、お皿だしてください」 「あ? ああ、ほい」  声をかけてきた優衣が、俺の差し出した皿にたっぷりと乗せていく。  肉、肉、肉、肉―― 「優衣ちゃん……さすがに野菜も食べさせなくちゃだめだよ?」 「で、でも、祐夜くんはお肉が好きですし」 「まあそうだけどさ――とにかく、自分が苦手だからってピーマンばっかり盛るな、美姫」 「へへ〜ん、入れたもの勝ちだよ♪」 「なんだよそれ……」  肉とピーマンの狂詩曲。  肉を口へ放りつつ、このテーブルにいる生徒を眺めた。  優衣、美姫、真紀恵、瑞樹や天宮までいる。  ――というか、なんでこのテーブルは女子男子9:1なんだ。 「早く食べないと、お姉ちゃんがあ〜んしちゃうよ?」  そういわれたので即座に肉とピーマンを口へ流し込んだ。  すると、しくしくと優衣へ泣きつく美姫。 「お姉ちゃん離れだよ〜ひどい弟君だよ〜優衣ちゃん〜〜」 「え? ええと……」 「よよよよよ〜」  優衣の見えないところでちらちらと俺をみているのは気のせいではないだろう。  鉄板の上から食材がなくなってきたのを感じ、投入しようとする。 「弟君は座ってるの!」 「祐夜くんのお世話は私たちがするんですからね!」  優衣と美姫に強く拒否され、しぶしぶ席へと戻った。  てきぱきとした動作で鉄板が彩られていく。 「ヒモだねぇ、祐夜さん」 「うるっさいぞ真紀恵……」  クスクスと笑ってくる真紀恵の皿に箸をすべらせ、肉を奪い取った。  間髪いれずに口へと捕食する。  ――奪った苦労があると、格別の味だ。 「ひどいよ〜、しくしく」 「がらにもなく、嘘泣きはやめとけ……」  俺の肩へ泣きつこうとする真紀恵を制した。  ――嘘泣きキャラは一人で十分。 「弟君!」 「……何?」  右に左にせわしない感じがする。  上目遣いで睨んでくる美姫は、いきなり抱きついてきた。  髪のさらさら感をぼおっと見つめている間に、耳元で囁かれる。 「好き…………」  ――雰囲気もムードもない告白だ。  小さくため息を吐く。 「も〜。もうちょっと初々しい反応してくれないかな、弟君は!」 「いつの間に色恋沙汰の話になったんだ……初日なんだし、二日目の夜くらいはつきやってやる」 「まぁ♪ お姉ちゃん壊れちゃうかも♪」 「何の話だコラァ」  小さく美姫の頭を小突く。  てへへと笑う美姫の小悪魔な笑みは、魅了の力を秘めているといっても過言はない。  ――俺でも、可愛いと思うからな。 「美姫、早くしないとおこげが付いちゃいます……」 「全部弟君に回してね♪」 「どんな偏見視だろうな、ソレは」  ――腹の具合を確かめつつ、言う。  それでも俺の皿には人一倍の量が盛られていた。 「おにぎりもあるよ♪ あ〜んしてあげよっか?」 「……」  意地悪そうな笑み。  反撃をすることにした。 「そうだなぁ、うん。口移しでも食べさせてもらおうか、美姫に」 「……え? えええ?」 「お姉ちゃんだもんな、できるよな?」  残虐な笑みを浮かべていることが自分でもわかる。  目に見えて赤く染まった頬、その持ち主である美姫はおにぎりを見つめてぼおっとしていた。  ――突然、それをパクッと咥える。 「ふぁやふひぃひぇふぉ」 「……悪い、俺が悪かった、度が過ぎた。ごめん」  唇を突き出してくる美姫に両手を合わせる。  可愛らしいゴクリという音が聞こえ、美姫は涙ぐんだ。 「ひどいっ! お姉ちゃんとの関係は遊びだったんだね!?」 「……言い返せない用件がひとつほど、あるようなないような」 「ガーン!?」  美姫姉いじりのことをどういえばいいのか悩んでいただけなのだが、なぜか優衣が崩れ落ちる。  頭を撫でつつ皿にある食材の消化をした。 「そうだ、弟君! 明日って誰かと予定あるの?」  さきほどとは打って変わり、俺の下から覗き込んでくる美姫。  俺は脳裏にスケジュールを引っ張り出した。  明日――特にない。  そのままの意味を込めて、縦に首を振る。  輝かしい笑みがさらに光り輝いた。 「それじゃ、明日は私と優衣ちゃんでどう?」  美姫の腕が優衣の肩へ回り、抱き寄せられている。  よくわからずにいる優衣だが、拒むことなく美姫の腕に抱きしめられ縮こまっていた。  ――恋人で通りそうだ、この二人。  美姫もがんばれば、美少年で通るくらい。  幼い頃を思い出せば、僕っ娘だったら可愛らしい男の子にも間違えられたかもしれない。それほどに男装が似合うともいえる。 「いいけどさ……明日ってなんだった?」 「ふふ♪ 明日のお楽しみってことで、おひとつよろしく♪」  わけがわからない――小さく首を傾げてしまう。  同じ様子の優衣だったが、美姫に耳打ちされるとなぜか俺をまっすぐ見て。 「ふ、不束者ですが、よろしくおねがいします……です」 「明日が楽しみだなぁ♪」  ――なんだか、思わぬ方向に進んでいる。  だが、自然と笑みを浮かべてしまいそうな楽しさに溢れていた。  幸せだ、俺は間違いなく幸せだ。  微笑の絶えないこの場所で、俺として生まれてきたことを感謝する。  ――ずっと続いてほしい。 「どうしたの?」 「ん――なんでもない」  バーベキュー奉行になりはじめた美姫に覗き込まれ、俺はそう首を振った。  訝しげに見てくるが、満面の笑みで作業へともどる。  頬杖をついて美姫を眺めた。 「……腹が重い」  思わず腰を下ろして、息を吐いた。  畳の上には個々の荷物が置かれているため、肩身が狭い。  生徒にはそれぞれの部屋が割り当てられ、三人・四人ほどでひとつの部屋で過ごすことになる。  俺のいる部屋は、御劉と輝弥が同席するはず。 「なんか、仕組まれてる感じがするな……」  本人の前で言っても真実は得られないだろう。  俺以外の存在がいないことを改めて見回す。  途端に、先ほどまで呟いていたのが恥ずかしくなった。  重い体を持ち上げ、自分のカバンからデジタル電波時計を取り出す。  ――消灯までまだまだあるな。  シャワーを浴びてから、少し散歩でもしようか。 「美姫や優衣もおんなじ部屋だったら、遊びに行っても……」  ――帰ってこれない気がした。  そんな思想を振り払うと、ゆっくりと腰を上げた。  白い煙が立ち昇る。  タバコを摘み、唇から離した。  口内で漂う煙を味わい、ゆっくり長く吐き出す。  ――久々の味は最高だな。  他の教師、生徒に見つかったら終わりだが、今頃はシャワーを浴びているものが多い。  ばれはしない――もう一度唇に付け、大きく吸い込んだ。 「……こんなところで喫煙なんて、ばれたらどうなるんです?」  背後から尋ねられ、煙が変なところへ入ってしまう。  途端に咳き込み、タバコを落とさないよう人差し指と中指で摘んだ。  もう片手で口を被う。  ジットリとした目でガンを飛ばした。 「……なんで睨まれるんでしょうねぇ。とにかく、タバコは控えたほうがいいですよ。身体に悪いです」 「私の体だ。人に、それも教え子に何やら言われる筋合いはない。というか、そーゆーことは私が言うのが筋ってものだ」 「そうならないのはなんでしょうね……」  私の隣で苦笑いを浮かべる、彼。  穏やかな雰囲気を持っていながらも実は子供っぽいところもある、そんな教え子。  純粋だと断言できた。 「で、お前は一体何でこんなところに?」 「いえ、まあ、誰もいない部屋で一人寂しく過ごすのも、暇だなぁとおもいまして、外に出てきたんですよ」  ぎこちない笑みを浮かべて、彼は目を逸らす。  人の心に触れることが多い彼にとって、独りほどつらいものはないといったところか。  ほっと息を漏らしているように見えるが、タバコの煙を大げさに吐き出すことで見逃してやる。  宿泊ホテルの外、星空がよく見える澄んだ空を仰ぎ見た。  無言の静寂、向こうがしゃべりださないので、こちらも黙々とタバコの煙を見つめていると、彼のほうから絶句するように言う。 「……先生って、人を弄って遊ぶのが得意だったりします?」 「おお、よくわかったな。特に、いつも図に乗ってるようなやつや優男を苛めるのが楽しくて楽しくて、クックックック」 「……尊敬できる要素がない先生って、困りますよね」 「お前は後者だけどな」  目を丸くする彼に、私は酷く意地悪な笑みを向けてやる。  悔しそうな顔が楽しくてたまらない。 「修学旅行、一日目終了。感想は?」 「……楽しいですね、とにかく。いろいろなことが忘れられます」 「そうか、そりゃよかった――お前の楽しいに付き合うやつらは、もっと楽しそうだろうがな。いや、それこそがお前の楽しいなのか?」  無言。  私は携帯灰皿を取り出し、タバコを擦り付けた。 「……それでも、ずっと楽しいままじゃいられないって、気づいちゃうんですよ」 「人は進む。だから、不幸と幸せは均等にあるんだ」 「なんで、幸せだけじゃないんでしょうね」  無茶な教え子だ――私は自然とほくそ笑む。 「難しいな、お前が一番難しいよ」 「……そうです、か?」 「ああ、自覚はないだろうがな。お前みたいな幸せ者が、一番複雑に悩むんだよ。それこそ死にそうなほどにな」  死ぬこともある――その言葉だけは伏せておく。  彼の笑みは、疲れきったように乾いていた。  |円環の自問自答(ウロボロス)。いや、どちらかといえば思考の迷宮。  答えがないのだから、彼の求めるものも導き出されはしない。 「――今、幸せか?」  私は自然と問うてしまう。  答えはなく、私は彼を背にして空を仰ぎ見た。  彼も同じように、この空を見ているのだろう。  冷気が染み渡ってきた頃、彼は口を開く。 「…………幸せです」  私はもう一本タバコを取り出す。  カチッ、といわせてライターに火を灯した。 「早くもどれ、見回りにきた教師にみつかると、いろいろと厄介だぞ。『黒会』とかいう反生徒会組織が動いているらしくてね、厳重すぎるほどに厳重なんだ。 『非公式新聞部』に次いで楽しいことをやらかしてくれるよ」 「……御劉と輝弥、部屋にいなかったですよ」  地面を踏み鳴らす音が等間隔で響き、じょじょに小さくなっていく。  完全に聞こえなくなると、付けっぱなしていたライターをタバコの先に近づけた。  一瞬で火が移り、白い煙が上がる。  ゆっくりとそれを咥え、肺へと流し込んだ。  大きく吐き出す。白い息が立ち昇って消えた。  ――うまい。  星の夜空という情景を眺めていると、不思議な浮遊感に包まれる。  私は小さく、微笑むことができた。  物語は無数を越える無限で在る。  それと等しき数の人生の線が在る。  不幸か幸福か、在るのは痛み。  痛みと判断される過程は存在せず、それでも尚人生は痛みと表現される。  人生は傷つくものだと言われ、人は死ぬために生きるのだと言われ、その過程が儚く酷いと思わざるを得ない。  それを否定しはするが――理解はあった。  命がいくつあっても足りないとはこのことかもしれない、悩みに悩んでも悩み足らない。  どれだけ命と時間を削っても終わらない。体がぶっ壊れても、精神が崩れ去っても、終わりはしない。  その限界が死、神の判断に委ねられた規定。  そして気づく。人間は死ぬためでも傷つくためでもなく、守りたいものがあるから、この手で掴みたいものがあるから、生き続けるのだ。  何がぶっ壊れても、この思いだけは折れないと確信して。  その思い、あるからこそ想う。  ――主人公(ヒーロー)だと。  そして私は思う。  何が彼をそうするのか、今がそうなのか、これからもそうなのか。  わからない。わからないが、思ったのだからそれだけでいい。  一度だけ、口にする。  ――君は、優しすぎる主人公だ。  今日という日は、漆黒でも明白でもない曖昧。  彼の望む場景であり、彼の望む幸せだった。  だからこそ、私は願う。  ――願わくば、一時でも多くの今を寄越せ、と。  与えられるものではない、手に入れるものだ。  それを、彼は理解していないだろう。  その事柄がどうこれからに影響するか、どう反映するか、わかりはしない。  だがそれでこそが彼。それでこそが我が教え子、三井 祐夜なのだ。  これいい、これでこそが最高。  ――この場景が崩れ去る音を聞くのはいつなのか、彼が聴くのはいつなのか、わかりもしないことを悲しくも考えてしまった。  ……こうして、一日目は終わりを告げ……