【タイトル】  Requiem〜空白ばかりのアルバムは躯とともに燃え消えて〜.txt 【作者】  水瀬愁 【管理】  小説家になろう[ウメ研究所] 【ジャンル】  恋愛 【種別】  短編小説 【本文文字数】  33473文字 【あらすじ】  壊レた夢ノ最中――愛情の向こう側にあるもの。”あれ”は鎖となって身に絡みつく。狂おしい。人はみな狂気する。 注意 小説には著作権があります。この小説を無断で再配布・転載する事は著作権法で禁じられています。 (C)水瀬愁 ************************************************ 『ねぇ、和希さん』  青い空には、一辺の曇りもない。  陽射しの暖かさが、とても心地良い。  たくさんのシーツが干されているこの屋上は、少し前までは俺だけのお気に入りだった。  病院内は居ずらいというのが本音なのだけれど、それは医者という俺の立場があるため伏せておく。 『ひとつ、お話ししなくちゃならないの』  そう、そうなのだ。  あれから少ししか経っていないのに、  この場所は、俺と彼女との、二人のお気に入りになった。  つまりは、せっかくの秘密基地を別の子にも占領されていたと知る子供の立場。そうなのだが、自然と悪い気はしない。  占領しにきたその子が好きな相手だったから――うん、これが妥当な解答だろう。  咥えたタバコをつまみ、空の彼方を見通そうとしてみる。 『……私、やっぱり死んじゃうの』  夏に近いこの日の陽射しは強いというのに、頬に伝うものを乾かしてはくれなかった。  Requiem〜空白ばかりのアルバムは躯とともに燃え消えて〜  桜の木が両側に連なるスロープで、  何かを踏んだ気がして、俺は立ち止まる。  俺の直感は鋭いらしい。確かに、足裏は紙のようなものを踏んでいた。 「あー!」  キーンとくる叫び声に、たまらなくなって耳を押さえる。  同時、ドンッとぶつかられてよろめいた。  さっきまで俺のいた位置には、少女がしゃがんでいる――俺のせいでくしゃっとなったのであろう紙を両手に乗せて、だ。 「うや……受験票がみっともない姿に……」  涙を目じりににじませたその子の言葉に、俺は何をやってしまったのかを薄々理解する。  ぽりぽりと、頬を掻いた。  そして、謝ろうという心意気をなんとか決め、その子に一歩進み寄―― 「そこのあなた!」  ろうとした俺に、その少女はビシッと人差し指を向けてきた。  今にも泣いてしまいそうな顔に、恨めしげな瞳がある。 「絶対の絶対の絶対絶対ぜ〜〜〜ったい! 許しませんから!」 「……あー」  それは少し困るかもしれない。  心意気以外にも謝ろうとする感情が生まれて、俺は今度こそ頭を下―― 「それでは! 急いでますので! 今日のところは! ここで失礼させていただきます!」  げる間もなくその子はスロープを駆け上がっていってしまった。  声をかけて、引き止める暇もない。 「……はぁ」  妙なことになったと、溜息を吐く。  そして思いなおした。  ――もう二度と会えるはずないじゃん。  受験票ということは、このスロープを越えた先にある高校かどこかを志望した子なのだろう。  腕時計で時間を確かめて、うんと確信した。  ――とっくの昔に開始時間は過ぎちまってる。  あの子は学校に辿り着いた後、知ることになるのだろう。  不幸なことだと思う。まあ、一応少しは同情する。  でも、それ以上に、ほっとした。 「さて、そろそろ俺も行かないとヤバイな」  ハッと思い至って、俺はスロープをやっと登りはじめる。  その先にある――星章高校を目指して。       ○  ○  ○  4月8日 天気は晴  妙な子に出会った。  スロープで出会ったその子は、ほんとうに妙だった。  出だしから、いきなり劇的だと思う。平々凡々を好む俺には天敵だ。  忘れよう。もう二度と会うこともないだろうから。  どうせなら、この日記に書かないほうが簡単に忘れられるんだろうけど、あまりにも印象的だったため記しておこうとおもう。  さっさと忘れ去っておかないと、これからも妙なことが起こってしまうのではないかと不安だ。ほんと、これ以上妙なことには起きて欲しくないと思う。冬休みや夏休みのように、寝ている間に過ぎ去るような短い毎日を俺は欲する。       ○  ○  ○ 「あー!」  陽の光が少し痛くなってくる頃、  静かだから一人で落ち着けると気に入った、星章学校の屋上で、  一瞬脳裏にデジャ・ヴを駆け巡らせてくれるその声を、俺は聞いた。  慌てて振り返るよりもはやくに衝撃がきて、危うく縁まで歩み寄りかけてしまう。  理由もなく揺れる平衡感覚に、それに伴う嫌な吐気。  深呼吸して落ち着き、俺は数歩下がってから今一度そちらへ振り向いた。 「……おいチビっ娘、場を弁えてぶつかるようにしろ。ここは屋上だ。もし落ちたら、どう責任取ってくれるつもりだァ?」 「知りません。落ちた人が駄目駄目なだけです」  キッパリとジコチュウなことを言ってくれちゃったそいつは、ジトーと俺を見てくる。  思いっきり毛嫌いしてやがる……っていうか、 「なんでここにいんだよ、チビっ娘。ああ、そういうことか、執念のあまり不法侵入しちゃったのか、そりゃ悪い子だなぁ」 「心外ですね。これでも私は、せーしょーがっこういちねんせーです」  えっへんと張られた胸に、俺は感心した。 「頭良いんだな。ちょっとだけ見直したぞ、チビっ娘」  時間的には、ぎりぎり二つ目のテストを受けられるかどうかというところだったはず。一つ目はどちらにしても間に合わなかっただろうに、と考えれば、合格したこいつを少しは見直せる。うん。 「見直してもらえたのは嬉しいですけど、私はチビじゃありません。今年は、下から数えて三人目くらいでしたもんっ」 「十分チビだろうが」 「うや……」  墓穴を掘ったと気づいたのか、悔しげに唸ってくる。その姿がまた小動物っぽくて、おもしろい。 「そ、そういえば、あなたはなんでこの学校にいるんですかっ? そっちこそふほーしんにゅーっぽくて、不審者っぽいです」 「なんで不審者だけ棒読みになんねぇの?」 「それがミッちゃんくおりてぃーです」  クオリティのほうをちゃんと発音しろよ。  そこで気づく。適等に受け流して会話を終了させるつもりが、いつの間にか変なペースが出来上がってしまっていると。  フリーの時間を侵害されるのは気に食わない。しかし、まぁ、たまにはいいかなと思って、  フェンスに背中を預けた俺は、愛称はミッちゃんというらしいそいつに向き直った。 「俺は篠崎だ。篠崎琢磨。今年からこの学校の保健室を管理し始めて、一応教師っぽい役柄の者だから、不審者じゃあない」  よろしくと頭を下げると、すっとんきょんでしどろもどろな声が応えてくる。 「え、えと、み、美咲です。愛乃(よしの)美咲(みさき)。この星章学校のせーとをしてます。どぞ、よろしくおねがいしますっ」  流されやすいタイプなんだな、と思った。 「俺の趣味はピアノ伴奏だ」 「わ、私の趣味は、読書……かな?」 「得意教科は体育で、苦手教科は家庭科」 「あ、私はその正反対です。得意なのが家庭科で、苦手なのが体育。中学の調理実習ではいつも褒めてもらってたんですよ♪」 「よろしければ、スリーサイズを上から教えてくださいッス」 「えと、72と50と75……って、何言わせるんですか!?」  弄りがいありすぎるぞ、こいつ――思わず吹き出てしまいそうな爆笑を、必死に押さえ込む。 「美咲。もっと乳酸菌をとらねば、ぼん! きゅっ! ぼぉん! の女性にはなれんぞ?」 「ええと……ぼん! きゅっ! ぼぉん! になる必要があるのでしょうか?」 「ある」 「うわ、すっごい断言ですね……」 「グラマーな女性には誰もが恋心をずっきゅん! ずっきゅん! させるもんだ。なって損はないクラスジョブだぞ」 「ずっきゅん! ずっきゅん! ですかぁ」 「ってことで、保健室のお兄ちゃんがマッサージしてあげちゃうぞー☆」 「へ、変態ですね!?」  飛びずさった美咲が、露出狂を見るような目で俺を見てくる。  これこそまさに心外。俺は慌てた風に装って、首を横に振った。 「他意はない、他意はないぞ。教師の行動の半分は優しさでできている」 「残りの半分が邪なんですね?」 「つまりはそういうことだ」  しまった。 「ち、違う。違うんだ。俺とあいつはただの友達なんだ。何回言えばわかるんだよ!!」 「嘘! 私、知ってるんだから。あなたがもう私に興味を持ってないんだってことくらい、わかってるんだから!!」  よし。 「何を知ってるっていうんだよ!? 俺は何も不謹慎なことはしてない。俺がお前と誓ったエンゲージは、今も俺の心に刻まれる十字架だ!」 「……琢磨さんは、嘘を吐くのが上手いのね。そうやっていつもいつも、私を騙してきたのよね」  ……。  ……。  ……。  題名『荒んだこの世界で僕らはずっと生き続ける〜とくに書きたいことないけどとりあえず波線をつけるという青少年のようなちゅうぼうっぷり〜』  プロデュース 篠崎琢磨  主演者一覧  不倫した漢 篠崎琢磨  不倫された人間(女) 愛乃美咲  これまでのあらすじ  変わり映えしない日常に飽きてちょっと非行に走ろうと思い何を血迷ったか飛行してしまった漢は謎の女性に助けられ、一目ぼれのあまり切腹しかける。しかし女性が自分はバットウーマンであることを明かしたことで一旦事を終える。だが、時空超激戦中に彼の撒いた種がひとつではないことがばれ、総てに終止符を打つため琢磨と美咲は離婚調停の場へと立った。そしてその後、琢磨と美咲は真昼間の屋上で……。 「琢磨さんがこんにゃくいもと不倫してるって、私、気づいてるの」  えっと戸惑うのは俺の番だった。当然だろう。そんな在り得ないことを言われたら、誰もがそういうに違いない。 「何を……言ってるんだ」 「もう隠さないでいいのよ。私は全部知ってるの。もう何もかも遅いんだって、気づいてしまったのー!」  のーのーのーのーと絶叫で歌い始めた彼女に、俺は突然のことすぎて目を背けることしかできなかった。  〜完〜 「……無意味な話でもするか」 「先に無意味といっちゃぁおしまいかと」  妙に疲れたから、だらだらしたい。  今思い返せばおかしなことが多すぎる。第一、なぜこんな話になったのかがわからない。 「おまえさ――」 「美咲です、琢磨さん」 「――美咲はさ、なんでこんな寂しいとこにきたんだよ」  背を預けていたフェンスに両腕を乗せ、見下ろす。  ちょうど複数の女生徒がミニゲームのようなバレーボール上げをしていて、楽しそうに笑いあっている。  それと比べれば、ここは水の中といっていいくらいに無音だ。  ……新入生なら、自己紹介やら学校行事やらでできた友達と遊ぶので手いっぱいだろうに。  そこまでの考えと、窺った美咲の表情とで、だいたい予想はついた。 「……気づいたときには、一人になってしまっていました」  淡い笑顔。痛々しい。胸がきりきりと痛んでしまう。  たまにあるとは、聞いていた。  輪に溶け込めず、ひとりっきりになってしまう子がいる話を、聞いてはいた。  しかし、だからこそ、納得できないものがある。  こいつは普通の子だ。何も変じゃないし、どちらかといえば愉快な風だと思う。ちょっと天然な感じがあって子供っぽいけれど、それに気が合ってくれるやつだっているはずだろうに。 「…………そうか」  俺は頷いた。頷くことしかできないから、頷いた。  立ち入ってはならない世界のような気がした。だから立ち入らないでおこうと、興奮を冷ます。  せめて――せめてでもと。  美咲に幸があってくれと、柄にもなく神様にお願いしておく。  神様は、とんでもない形でその俺の願いを叶えてくれた。       ○  ○  ○  4月25日 天気は曇  今日は、良いようで悪い気もすることがあった。 四月初めに出会った妙な子に再会したのだ。  名は雅というらしい。  ちょっと天然で、ちょっとトロくて、ちょっと優しいそいつを、俺は嫌いと思えなくなっていた。  無理に毛嫌いするのもかったるいし、それでもいいんだろうけど。  だけど、線引きはしっかりしておかなければならない。  ときに曖昧となるようなものではなく、もっと断固とした線で、こっちとあっちを区切らなければならないのは当然のこと。  立ち入りたくなければ、立ち入られたくなければ。       ○  ○  ○ 「……ん」  授業中であろう今、ドアがノックされた。  パターンを予想し、俺は顔を引き締めてドアを開ける。  同時、ドアの向こうの知った顔と目が合って、溜息を吐きそうになった。  首を捻り、ドアの上方へ視線を向ける。  ――保健室。  うん、合ってる。  捻った首をもどした。 「……どうかしたんですか、琢磨さん?」 「いや、お前が場所を間違えたんじゃないかと思っって、一応お前の立場をたてるつもりで標識の確認を、な」  体操服姿の美咲を、てっぺんからつま先まで見る。  傷はなかった。が、片手で二の腕を押さえてはいた。  だいたい目星をつけ、美咲を手招いてドアから机へともどる。  と見せかけて、 「あっ」  室内へ入り、丁寧にも両手でドアを閉めようとしていた美咲の腕を掴み上げた。  うっと顔を顰める美咲の様子と、視界に入ってくる情報と。  俺ははぁっと、大げさに溜息を吐いてみせた。 「……体育でスライディングまがいなことでもしたんだろ」 「ど、どうしてわかったんですか!?」 「授業中に来るやつが体操服を着てれば、それくらいはな」  目を丸くする美咲にそう説明しつつ、俺は棚からいくつか物品を手に取る。  処置をどうするかは頭に浮かんでいたので、順序どおりの作業をてきぱきとこなしていくと、美咲が息を飲んでじっと見つめてきているのがわかった。  ちょっと緊張する。しかし、手元にまでは及ばない。 「……これでよしっと」  ガーゼを固定し終えて、俺はふぅと息を吐いた。  そして、立ったままで処置を行っていたと気づく。 「…………座るか?」 「あ、はい」  物品を棚にもどし、手近にあった丸イスをふたつ引きずる。  片方を美咲へと滑らせ、残ったもう一方に俺は腰を下ろした。 「それで、だ。何がどうあってどうして怪我したか、事細かに、修飾語や比喩法も用いて、主語述語なしで説明してみろ」 「へ? え、えと、私は国語が苦手で……」 「なら余計に、今からしっかり勉強しておいて損はないぞ。ときに文章力というものは、発言が詰まったときとかに有効だしな。スピーチで頭が真っ白になったりしたときとか、即座に文を考え付けたらってお前も憧れるだろ?」 「た、たしかに憧れます……凄いです」 「よし、なら今からビシバシ練習だ。がんばれ!」 「は、はい!」  そうして美咲観賞タイムがはじまり、俺はニヤつきそうになる頬を必死に引き締めるので忙しくなる。  口をパクパクし、ときには何かを言おうとして、だけど挫折する美咲の様は……やはり、何度見ても楽しかった。  ある程度時間が経ち、美咲の頭から煙がでてきた頃合を見計らって、俺は美咲の頭をガシガシと撫でる。 「まあ、うん。これからちゃんと勉強しようってことで、いいな?」 「うや……」  肯定するように目を細める美咲を見ていると、なんだか心が温かくなって、自然と表情が微笑をつくっていた。 「友達、できたか?」 「はい……琢磨さんのおかげで、クラスにも溶け込むことができました」 「俺は何もしてないだろ」 「そんなこと、ないです」  真剣な眼差しで美咲は断言してくる。 「琢磨さんといっぱいおしゃべりしたのもあって、クラスメイトさん達にしゃべりかけることができました。琢磨さんといっぱい笑ったのがあったから、クラスメイトさん達と友達になれたんだと思います。 全部、全部、琢磨さんが背中を押してくれたからなんです」 「……絶対許さないとか言って、恨んでたんじゃなかったっけ?」 「それはそれで、これはこれです」  ごまかすという気のない様子の美咲がおかしくて、俺は思わず噴出した。  腹を抱えて笑う俺に、わけがわからないであろう美咲は赤面して頬をぷくぅと膨らませる。  怒っているつもりなのだろうが、その顔がまた可愛くて、  俺はぎゅっと美咲を抱きしめた。  耳元で、呟く。 「その調子で、がんばれ。目指すは友達百人だ」 「……はい」  腕を離し、にっこりと微笑んだのだけど、  美咲は、ちらちらと上目遣いで俺を窺うことはあっても、しっかり目を合わせてはくれなかった。  その頬は、怒ったときのがまだ残っているのか、ほんのり少しだけ赤かった気がする。       ○  ○  ○  5月7日 天気は晴  雅という女の子とまた話をした。  雅の信念はどこまでも真っ直ぐで、どこまでも優しい。だから余計に壊れやすくて、少し心配に思った。  我ながら自分は馬鹿だと思う。ちょっと前では線引きがどうたらこうたら言ってたくせに、ずいぶん踏み入っているものだ。だけど、嫌な気はしない。  彼女と過ごす世界は、とても楽しいものだ。  彼女と見ている世界はとても楽しいものだ。  彼女のいるこの世界はとても楽しいものだ。  自分は彼女に、いろいろなものを変えてもらったと思う。この日、俺ははじめて空気を胸いっぱいに吸い込んだ。世界を全身で感じた。       ○  ○  ○ 「まるで世界樹の葉のようなとある病院と、素晴らしい交流会を!」 「いきなり叫んでどうした……傷口から変なばい菌でも入ったか?」  ひざの傷への処置を終えたところで、俺は苦笑させられる。  昼休み中ごろの今、俺と美咲は保健室を二人っきりで独占していて、カウンセリングとでもいえばいいのか……つまり、暇だから無意味な話をしているわけだ。 「無意味じゃないです」 「心情に突っ込むよりも、話を進めてくれ。交流会がどうしたって?」  いつも何かしら俺に話してくるので、こういう話題も珍しくない。最低ランクの話題――今日の靴音はどうたらこうたら――と比べればまだマシなものだったため、俺はとりあえず聞いてやることにした。 「ある病院の方々に出し物をみせるらしいですよ。こっちがそちらに出張するらしくって、ちょっとワクワクしてるんですよぉ♪」 「病院ねぇ……格段珍しいわけじゃないだろ?」   俺としてはあんまり珍しくないのだが、ぷるぷると首を左右に振る様子を見たところ美咲にとっては結構珍しいことのようだ。 「それで。琢磨さんは、どんな出し物をすべきだとおもいますか?」 「そんなこと、クラスで決めるだろう? 俺の口出しできることじゃない」  机に置いてある缶コーヒーを手に取り、啜る。  ……うん、やっぱり甘い。  無糖のほうがいいな。妙なことは試すもんじゃない。 「……琢磨さんって、優しいのかそうじゃないのかよくわからないです」 「優しくしたつまりは毛頭ないぞ。お前が俺の言葉をどう受け止めるかはお前の勝手だし、つべこべ言うつもりはないが、お前の理想像を俺に押し付けるのだけは勘弁してくれ」  口は閉ざされているが、ムスッとした顔が不満を訴えてきている。チクチクした視線も、耐え難い。  俺ははぁと溜息を吐き、渋々といった風に折れてやる。 「ただし、お前の意見を尊重して、できるかぎり俺の意見は省くからな。俺がするのは、あくまでもお前へのアドバイスだけだ。考えるのはお前で、発案したやつをクラスに発表するのも、全部お前なんだからな?」 「はい。ありがとうございます♪」  満面の笑みのこいつは、ほんとうに何も知らない。  今この学校ではひとつの噂が流れているというのに、だ。  ……保健室で、先生と生徒が不健全な行為に及んでいる。  火元のない場所に火は起きないというから、全否定して忘却はさすがにできない。こうやって密談してることが誤解を引き起こしているのは、あまりにもわかりきったこと。  一人立ちさせてやらなければならないのだ。  美咲は、毎日昼休みになると必ず尋ねてくる。今日は怪我をしたせいだろうが、何の理由もなしというのがああも連続しているとさすがにヤバイ。  噂を関係なしにしても、昼休みという友人交流に最適な時間を俺に使わせていてはならないのだ。このままでは友達になれたであろうクラスメイト達との関係もまた薄くなってしまうし、第一俺に依存しはじめさせてはいけないだろう。ここは心を鬼にしてむっつりとした態度でつっけんどんに言葉をぶっきらぼうとし、美咲を俺から離さねばならない。  ……なんでそこまでわかってて、自分はこうも、なぁ。  親子で表すなら、自分は馬鹿親の立ち位置か。 「……どうかしましたか、琢磨さん?」 「フリフリのゴスロリ服を着た女生徒がコーヒー配ったり客の目の前で雑巾かけをする、なんて企画を構想してる」 「うや、やっぱり琢磨さんは正真正銘の変態ですね……」 「嘘だ、本気にしないでくれ」 「それくらいわかってます。じょーくにのってあげたんですっ」 「妙な気ぃまわすんじゃねぇよ」  がしっと美咲の頭を掴んだ。掴んだだけで終わらせず、リンゴを潰そうとするように力を込める。 「うぁ! 痛っ! ちょっ! まっ!」  途方もなく、おもしろい。  振り子のように揺らすのも交えつつすると、尚一層おもしろいだろうな。  うん、試してみよう。 「ぐわ……ぐわんぐわんぐわ〜んぐわ〜〜ん」  変な世界に旅立ってしまったようなので、ちょっと焦りつつ必死に引き戻してやることとなった。  いや、  結局、どう思っていても美咲を手伝うことになって、いっしょに練っているうちに昼休みも過ぎてしまった。のほうが締めの言葉としては妥当かな、うん。       ○  ○  ○  5月23日 天気は雨  自分は一体、雅の何になりたいのだろう。  ふと思った。思ってしまった。それからというもの、とめどなく疑問は渦巻き続けてしまっている。  書いていても結論はでないだろうし、余計頭が痛くなるだろうから、今日はこのくらいにしておこうとおもう。       ○  ○  ○ 「琢磨さん、大変なんです!」 「ここは探偵事務所じゃないぞー」  本格的にコーヒーメーカーでコーヒーを淹れてみつつある俺は、落ち着きのない美咲をコツンと突いた。 「静かとはかけ離れたどたばたぶりで入っていい場所じゃあない。ここは図書室のように、静かぁにだな――」 「そんなことはどうでもいいんです」  どうでもよくない気がする。しかし、なんだかほんとうに美咲が慌てているので、どうでもいいことにしておく。  目で尋ねると、美咲はその大変なことを話し始めた。 「……出し物で必須となるピアノの伴奏者さんが、今の今となって寝込んでしまわれたのです」 「風邪か? それよりも、交流会はいつだったか」 「6月の初めごろです。あと5日です!」 「それはヤバイな」  ぶんぶんぶんぶんと首を縦に振る美咲は、ヤバイといってもハイになりすぎている。落ち着かせるつもりで、もう一度コツンと会心の掌底を叩き込んでやる。 「うやっ」 「そう取り乱すな。打つ手はあるだろうが」 「さ、さすが琢磨さんです!!」  きらきらと尊敬の眼差しで見上げてくる美咲に、悪い気がしないでもない。  俺は存分に胸を反らした。 「その伴奏者は練習のときに録音をしてるはずだ。反省点とか見つけるのに録音したものを聞くってのは有効な手だから、寝込む直前まで撮ってただろうさ。 伴奏者(そいつ)に連絡取って、テープをもらって、本番中に流す。これで一応、抜けた穴の補修は大丈夫だろう。残る5日の間に臨時の音響係を任命して、四六時中音楽再生のタイミングを合わせる練習をする方針でいくのがたぶん妥当だ。どれだけ違和感をなくせるかが勝負だな」 「う、うや……参考になりますです」  インタビューする記者のように、メモメモと美咲は俺の言葉を書き取っている。  対して俺は、額を押さえて落ち込むしかなかった。  ……まぁた助言しすぎちまった。  自分で考えさせる、という点をいつも抜かしてしまう。美咲のためにならないと思っていても、しゃべってしまう。  憂鬱のあまり、盛大な溜息を吐いてしまった。  そして、はたと思う。  ……吐いた溜息の数だけ、幸せが逃げていくっていうしな。  思考だけでも前向きにいこう。俺はグッと両拳を固め、よしと唸った。 「……あの、琢磨さん」 「なんだ、美咲」  まだいたのか、という冗談は、飲み込まざるを得なかった。 「……来て、ほしいんです」  潤んだ瞳。  赤くなった頬。  俺を伺う、上目遣い。  そわそわとした、落ち着きのない態度。  どこか、おかしい――美咲の様子に、俺はそう息を止める。  ぼそぼそとした言葉が、また紡がれた。 「交流会。琢磨さんにも来て欲しいんです!」  真っ直ぐとした瞳での断言。  俺と数秒見つめあったせいなのか、すぐにまた弱いけど強い光と戻ってしまう。 「…………よ、用事がなければで、いいんですけど」 「ああ、うん、まあ、その、ええと」  美咲がおかしいせいで、自分もおかしくなってしまっていた。  胸がドクドクと高鳴る。妙に口内が乾く。なぜか――美咲を可愛いなと思ってしまう。そう思うのがなぜか恥ずかしくなってくる。 「だ、大丈夫だ。行ける、うん」 「そ、そうですか……とっても、とってもとっても、嬉しいです」  トクン  胸に手をあて微笑する美咲。その仕草をじっと凝視している俺がいて、美咲に触れたいと思っている俺がいて、  ゴクゴクとコーヒーを啜った。  出来立ての熱さが舌を焼く。痛いけれど、構わずに飲み続ける。  最後の一滴までもがなくなり、空となったコップ。俺はそれを脇へとどかし、息を吐く。  苦味が口の中に広がるけれど、水分を取ったことで乾きは癒せた。  妙に頬が熱い。いや、おかしいことは何ひとつない。頬が熱いのは、熱いコーヒーを一気飲みなんてしたせいに違いない。まったく、俺も馬鹿なことをしたもんだな。  それから先、まともに顔を合わせてしゃべることはできなかった。       ○  ○  ○  6月5日 天気は晴  俺は最低最悪の馬鹿だ。  雅が気になり始めて、それなのに俺は馬鹿をやらかした。  俺の知ってる世界に、真実はこれっぽっちも存在してはいない。当たり前だ。俺は彼女を見れてはいなかった。俺は彼女の微笑みだけを見て生きていただけにすぎない。  どうしようもない。だけど、だからこそ、俺はこの日記に記しておこうとおもう。  俺は雅の手を離さない。俺は、雅と関わることをやめない。  これは誠意でも情けでもなく、つまりはそういうことなのだろう。  いえることはひとつ。大切なものが何なのか見えたから、もう迷いはしない。俺は雅に向かって歩き続ける。  少しこっ恥ずかしくなる。いつか、こんな言葉を本人に伝えられる日がくるのだろうか。できれば、少しでもはやくに来て欲しいと思う。  だって彼女は、あと少しの時間しか光り輝けない線香花火なのだから。       ○  ○  ○ 「ねぇ、和希さん」 「ひとつ、お話ししなくちゃならないの」 「……私、やっぱり死んじゃうの」  なんということはない。  俺が夢を見ていただけなのだ。  なんということはない。  世界が俺を中心に回っていないというだけなのだ。  なんということはない。  現実がこういうものであったというだけなのだから。       ○  ○  ○  6月7日 天気は晴  今日は、雅と写真を撮った。  彼女は、何枚も撮った中から一枚だけを俺にくれる。  その一枚はこの日記に挿むこととした。  初めての、彼女とのツーショット。嬉しいけど、少し悲しかった。  だって、これから彼女が衰えていくということの証明なのだから。  今日という日を、俺は二度と忘れないだろう。  今日という、彼女が微笑めなくなった今日という日を。       ○  ○  ○  四階建てだったかな。  吹き抜けになっている中央から天井を見上げ、全階数を予想してみる。  ……軽く五階はありそうだ。  記憶の光景と合致しないことに違和感をおぼえる。だが、大分劣化してしまったものだから一階分思い浮かべられなかったとしても不思議じゃない気がして、感じた違和感は脇へ押しやっておく。 「きてくださったんですね、琢磨さん!」  声をかけられて、俺は振り返る。  すると、やはり、思ったとおりの人物がそこには立っていた。 「似合ってるぞ、その衣装。クラスのみんなと作ったのか?」 「ええと、クラスのみんなが作ってくださいました。私も手伝おうしたんですけど、監督はもっといろんなことを見なさいって説教されてしまいました……あ、あはは」  さすが同級生どうし。社会にでたらそうはいかないからなぁ。俺はしみじみと思う。  クラスメイトが作ったらしい美咲の衣装は、白いドレスだった。  ドレスはウエディングドレスを簡素にしたようなもので、左胸には淡い黄色をした花が添えられている。  俺は優しく微笑んだ。 「似合ってるぞ、美咲」 「それはもう聞きましたよ、琢磨さん?」  俺は穏やかに微笑んだ。 「うん、すっごく似合ってる」 「え、ええと……琢磨さん?」  俺は最高に微笑んだ。 「いやぁ、ほんと似合ってるなぁ。可愛いぞ美咲っ」 「からかおうとしてるのはわかってますよ?」  ちっ。  美咲は少しレベルアップしていたようだ。いや、一度受けた技だからこその耐性だろうか。 「また劇みたいな会話をさせるつもりだったんですか?」 「まぁな。聞くか?」  やっぱり耐性のようだ。シナリオ進行を把握してやがる。  少し悩んだあげく、美咲はコクリと頷いた。 「……聞くだけなら、いいでしょう、付き合ってあげます」  俺は美咲に少し苦笑した。  しぶしぶといった風の言葉だが、様子はそれとは正反対で、ヒーローショーに出かけた少年がヒーローの登場を今か今かと待っているぐらいな表情を浮かべ、じっと俺を凝視している。  俺はその期待に応えるように、ゆっくりと口を開いた。  ……。  ……。  ……。  題名『荒んだこの世界で僕らはずっと生き続ける〜神の剣を担いし者は黄昏行く世界に何を想う〜』  プロデュース 篠崎琢磨  主演者一覧  勇者 篠崎琢磨  聖女 篠崎琢磨  これまでのあらすじ  勇者が魔王を打ち滅ぼし、世界は暗黒より救い出された。しかし、それでも世界は滅びの未来に刻一刻と迫り続けていってしまう。人々は絶望した。だが、勇者は絶望に打ちひしがれはしなかった。そして、勇者は再び大冒険の旅へ出る。その最中、世界を創造せし三英龍の力を二つまでその身に宿した勇者は、あの日あの時あの瞬間に魔王を倒したあの場所で、愛を誓い合い恋に落ち合い永久に信じ合うと確信してやまなかった彼女と―― 「この世界はね、一度ゼロにもどらなくてはならないの」 「もどる……どういうこと、なんだ」 「なくなるの。すべてが」  なくなる。彼女にとってつらいはずのその言葉は、彼女によって軽々と呟かれてしまった。  俺は剣を強く握り締め、彼女を睨みつける。彼女は俺の視線を妖しい微笑みで受け止めるだけ。 「この世界には、マイナスの事が満ち溢れすぎているの。 悲しいこと、切ないこと、寂しいこと、つらいこと、他人を傷つけてでも裕福になりたいという気持ちや、他人を気にせずにがむしゃらになって自分しか見ていない様」  思い出されるこの世界…… 「醜いままなのなら、いっそすべてを作り直せばいい。それで、この世界は自らの意思で滅ぶことを選んだ」 「でも、そんなのって……お前はそれでいいのかよ!?」  彼女は草花が好きだった。  彼女は命の鼓動が好きだった。  彼女はこの世界に生きる者達を愛していた。  ゼロになるということは、草花も命の鼓動もこの世界に生きる者達も、すべてが死に絶えてしまうということ。彼女がそれを受け入れるなんて、到底思えない。 「私たち人間は、世界に絶望を抱かせた罰を受けなくてはならない。罰を受けることが、この世界への唯一の贖罪だから……」  そんなの、悲しすぎる。  俺は自分の左胸にぎりぎりと五指を食い込ませた。  俺の身体には二つもの神が宿っている。とても強力で、膨大で、圧倒的な力が。  なのに、俺には何も変えられない。世界の行末も、彼女の表情さえも。  それがたまらなく悲しかった。  俺は、俺自身が本当は勇者でないことを思い知らされた。  〜完〜 「情景描写が少し不足していますが、発想はなかなかだと思います」 「上からの見下ろし評価とは、態度がでかいな、美咲」  少しからかってやろうと思った矢先、美咲の背後から誰かがやってきた。  俺の視線に促されてか、美咲が振り返る。 「あ、瑞樹ちゃん。もう時間?」 「うん……ええと、発表まではまだ時間があるだけど、森竹君が円陣組もうって言い出して」 「わかった。それじゃ、すぐ行くね」  ちらちらと俺を窺ってくるその女生徒にコクリと頷いた後、美咲は俺に向き直った。  美咲の口が何を紡ぐかはわかっている――俺はひらひらと手を振って、行って来いと合図する。  しかし、いつまで経っても、美咲は俺をじっと見上げ続けていた。  戸惑いをおぼえながら、しぶしぶ尋ねる。 「……何?」 「ちゃんと観ていてくださいね」  真っ直ぐな瞳で、じっと、じっと。  俺は返す言葉に戸惑い、頷くだけしかできない。 「それじゃ、がんばってきます」 「お、おう。がんばって来い」  とてとてと遠ざかっていく美咲の背中を見送って、俺は息を吐いた。  片手で額を押さえる。  ……何動揺してんだよ、俺。  元々、ここに来たのは美咲のクラスの出し物を見るため。それ以外に予定はないのだから、軽く断言できたはずだ。  美咲に見惚れかけるなんて、ほんとどうしたんだよ―― 「見惚っ」  思わず、絶句した。  自分の思ったことなのに自分で動揺して、自分の思ったことなのに自分で必死にごまかそうとして、  まるでこれじゃ、まるで――  ペシンと、片手の平で額を叩く。 「……っと」  ハッと我に返ったときには、もうたくさんの人が集っていた。  ニ階や三階から手すりにもたれて見下ろしている人しかり、ちゃんと用意された客席場で今か今かと待っている人しかり。  ……しかりってこういう用法だったかな。  文章について指摘されてしまうのも仕方ない気がして、俺はポケットから、 「…………もう持ってないんだったな」  思い描く虚像の感触は、ない。  当たり前だ。ポケットの中にあるのはビスケットが一枚だけなのだから。  口に放り込み、バリバリと噛み砕く。 「……しょっぱい」  思い返せば、その味覚は当たり前のように感じられた。       ○  ○  ○  6月6日 天気は曇  今日は、雅の入院生活の初日だ。彼女は比較的通常どおりで、どこもつらそうではなかった。内心ほっとする。  医者の方は俺より少し年上なくらいで少し心配だけど、雅をずっと診てきた方らしく、雅の両親も信用しているようだ。雅のお父さんもこの病院に勤めているらしいから誤診とかの心配はないだろう。  ちなみに、学校には行かなかった。彼女と出会えたあの高校が嫌いではないけれど、今自分のいるべき場所はもっとずっと違うところだろうから。  雅も仕方ないなぁという風に微笑んで、手をぎゅっと握り締めてくれた。       ○  ○  ○ 「美咲。お疲れ様」 「……あ、琢磨さん!」  わんこのように跳んでやってきた美咲。彼女はもうさっきまでの衣装から制服に着替えていて、俺としてはすこし残念かもしれない。  がしがしと、髪を撫でてやる。 「出し物、大成功だったな。おめでとう」 「はい……ありがとうございます」  はにかむ美咲は、そしてこう提案を持ち出した。 「あと少ししたら解散なんです。各自、自由に帰宅していいそうなんで、よろしければいっしょに帰りませんか?」 「あー、ごめん。俺、ちょっとこの病院に用があるんだ」 「そ、そうなんですか。それじゃ無理ですね……」  ショボンと肩を縮み込ませる様子が堪えられなくて、俺は美咲の顔を覗き込む。 「いっしょに来るか?」 「……私、琢磨さんのお荷物になってしまうです」 「おお、お荷物じゃない美咲なんて存在したのか。初耳だぞ!」 「ひどいです! 私が女らし〜くしおらし〜い態度で折れてあげているのに――」 「妙な気遣いすんな」  そして、ゴツンと頬を打(ぶ)つ。 「打ったね、親父にも打たれたことないのに!」 「よぉし、言ったな。本当かどうか確かめてやる。ってことで、お前の親父さんに会わせろ」 「へ……ええ!?」  慌てふためく美咲に、俺はどぅどぅと両手を上げた。 「美咲。動揺するんじゃない。胸を張るんだ」 「ん。こ、こうですかっ」 「そうそう」  ……美咲って、結構胸あるんだなぁ。  CかDだろう。背は俺の首くらいまでしかなくて、高校生とは言い難いというのに。 「栄養をべつのところに詰めちゃったんだな」 「へ?」 「いや、気にしなくていい」  思わず口に出していたようだ。さすがにこの心情がばれるのはまずいだろうな。  考えを改めて、俺は言った。 「いくか」 「はい」  満面に笑顔を浮かべて頷く美咲がたまらなくて、俺は顔を背けるようにして先へ先へと歩を進めていった。       ○  ○  ○  6月7日 天気は雨  夢とはなんだろう。  彼女の目に、夢なんて光は映っていない気がする 。  彼女は、もっと暗い道を歩いているんだ。顔の前に翳した手が見えないくらいに真っ暗な道を。  どこに地面があるのか全然わからないそこを彼女は歩かされているんだろう。俺や彼女ではどうしようもできない大きな力に。  彼女は恐くないのだろうか。  いいや、恐いに決まっている。だけど彼女は俺に微笑んだのだ。恐くないよ、と優しく呟いて。  なんだか、どうしようもなく彼女が気になる。  今この瞬間にも、彼女が底のない場所へ踏み出そうとしているのではないか。そう思うと俺は心がざわめいて仕方がなかった。  一分一秒でも長く、雅には生きていてほしい。  たとえ俺にはどうにもできないことであっても、願うことはやめられなかった。       ○  ○  ○  ノックする。少し経った後、ドアの向こうから声が聞こえた。  ゆっくりドアノブを回し、押す。 「お久しぶりです。月見里さん」 「やあ、君か。久しいね。あまり変わっていないようで、嬉しい限りだよ」  イスから腰をあげ、しわだらけの穏やかで優しい笑顔を浮かべる月見里さん。  彼は俺の脇にいる美咲に気づいたのか、一瞬だけ目を見開いた。 「紹介しますね。こいつは星章学校一年生で愛乃美咲っていうんです。俺の生徒ではないんですけど、いろいろな成り行き上――」 「え、えと、愛乃美咲です。琢磨さんがいつもお世話になってますっ」 「――美咲。俺がお世話してやってると思うのだが?」  俺の言葉に、美咲は眉を顰めて首を横に振った。 「気のせいです。私が琢磨さんをお世話してます。お世話しまくってます。もう家政婦の職業に転職したといっていいほど、お世話レベルが上がっちゃってる私です」 「なんだよお世話レベルって。っつうか、俺のほうが絶対お世話してやってるぞ」 「気のせいは思い込むともーそーですよ。もーそーしてる琢磨さんはやっぱり変態ですね」 「だからなんでそうなるっ」 「とても仲が良いのだね。君にそのような可愛い彼女ができるなんて、思いもしなかったな」  世辞であろう言葉。俺は笑みを浮かべておく。  月見里さんは美咲に向いて、そっと手を差し伸べた。 「琢磨くんを、これからもよろしく頼むよ」 「は、はい。もともとそのつもりです……」  月見里さんの片手を美咲は両手でにぎる。そうして、二人は握手した。  手を離したのを見て、俺は美咲に口を開く。 「月見里さんは、俺がこの病院に勤めていた頃の上司なんだ。新米だった俺にいろいろ教えてくれて、惜しみなく技術も盗ませてくださった」 「うや……琢磨さんとは違って、本格派な優しい人です」  そんけーの眼差しで月見里さんを見上げる美咲。  っていうか、美咲にとって俺は曖昧な存在だったのか。 「琢磨くんはとても優しい人間だから、そう軽蔑しないでやってくれないかな」 「やっぱり月見里さんは優しいなぁ。美咲、お前も見習って俺に優しい言葉のひとつでもかけてみろ」 「そういうのを俗に情けと呼ぶのではないかと思います」 「何ぃっ?」 「まぁまぁ、そういがみ合わないで」  ハッとここに来た理由を思い出して、俺は月見里さんに向き直った。  背中のほうからぐぇっという声がしたけれど、あえて無視する。 「……月見里さん。あのときは、ほんと、お世話になりました。 ありがとうございます」 「ああ、うん。少し長話をしたいところだけれど、彼女さんから君を奪うのも悪いしね。どういたしまして、と言うことにするよ」 「そ、そんな、彼女さんだなんて……」  二度目になってようやく「彼女」というキーワードに気づいたらしい。もじもじとしている美咲の姿が浮かんで振り返りたい衝動に駆られる。そんな心情を顔に出していないつもりだったが、月見里さんの笑顔の様子からするとそうではないらしい。 「ひとつだけ聞かせてほしい」 「……俺に答えられること、ですか?」 「君にしか答えられないこと、だね。彼女さんに聞いてもいいんだけど、それが真実かは到底わからない。私が真実を知りたい。だから、君にひとつだけ質問をするよ」  相も変らぬ口調、独白すぎず説明すぎず。嫌いではない、今でもあの頃でも。 「なら、仕方ないですね。何ですか?」  尋ねる。  月見里さんは、静かに、ゆっくりと、慎重に、唇で紡いだ。       ○  ○  ○  6月9日 天気は曇  彼女の病室に行ったけれど、ドアは開かなかった。  ずっと待っていると、看護婦の人が駆け寄ってきて俺に携帯電話を渡すのだ。  使っていいのかはわからなかったけど、その電話で今日初めての彼女の声を聞いた。  いつもどおりの声だったのを今もおぼえている。いつもどおりな風だった口調を今もおぼえている。  できるだけ楽しげに話して、終わった後に俺は気づかされた。  俺と写真を撮ったときの彼女は、もう過去にしか存在していないんだね。  恐くて恐くて、今も震えが止まらない。       ○  ○  ○ 「ここまででいいのか? 家まで送るぞ?」 「いえ、琢磨さんを連れて行ってはお母さんを喜ばせてしまいますので、ここまでで勘弁してください」  美咲のお母さんを思い描いてみて、喜ぶというのもありえそうに感じる。  ……娘が男友達を連れてきたー、程度に考えちゃいそうだわな、うん。  美咲のトロさやら天然さやらの色濃くなったバージョンなわけだから、通常の認識から脱線しているのは当たり前なのだろう。容易に想像できてしまうのが、どこかおもしろかった。 「まあ、夜道ってほどの時間でもないしな」 「まだお昼です。小さい子は公園で遊んでます」  陽の光でくっきり陰がでている、街道の此方側と其方側。歩行限定を示す白線が端ぎりぎりに引かれているくらい狭いここに、子供の声が響いてきていた。  美咲のいうように、小さな子が公園で駆け回っているのだろうか。 「美咲。友達作れたか?」 「はい」 「そうか、そうか。友達百人を軽く達成してしまったか。美咲は凄いなぁ」 「へ、ええ!? 百人もつくれてないと思います!?」 「腰を低く構える謙虚さを持ち合わせていらっしゃるとは、おみそれいたしましたぞっ」 「口調がいつもと全然違いますよ!?」  満足いくくらいに美咲をわたわたさせて、俺は美咲の髪にぽんっと手を置いた。  俺に撫でられてか、美咲は目を細める。 「……なんだか、手つきがとっても優しいです」 「ご褒美ってやつだ。痒いか?」 「ちょっとむず痒いですけど、でも、褒めてもらえて嬉しいです」  言葉どおりの表情か、表情どおりの言葉か。俺は、美咲らしいなと微笑んでしまう。 「それじゃ、そろそろ俺は行くわ」  ひとしきり撫でた後、俺は美咲から手を離した。  少し名残惜しく感じる。美咲があっと声をあげたきり押し黙るのを見れば、余計に。 「また明日、な」  手をひらひらと振って、同意を求める。美咲がしぶしぶ頷いてから、俺はやっと踵を返せた。  一歩。二歩。三歩。四歩。  五歩。そして、立ち止まる。  そして、振り返る。  じっと俺を見ていたらしい美咲と、目があった。  俺は、嬉しさと呆れとを混ぜた表情で、大きく手を振る。  何かを、待つように。  俺の待つ何かは、少しして返ってきた。  小さく振り返された手を、しっかり眼に焼き付ける。  もう一度歩き出しても、俺はまだ美咲を見ているような気さえした。       ○  ○  ○  6月13日 天気は雨  夏祭りの話をした。  夏休みの話をした。  友達が心配していると言って、元気になってまたあいつらと話そうなと約束した。  クスクスと微笑んだり相槌を打ったりする雅の声は、どこか大人びたように感じられた。  でも、そうじゃないと俺は断言できる。  大人びたんじゃなく、あれはどこか、そう。  どこか、寂しさに満ちていたんだ。  いつの頃からか、彼女の姿が脳裏でもおぼろげとなっている。写真は眩しすぎて見えなくて、思い返す過去は遠い昔の物語のようで。  俺はまたひとつ、夏休みにはいっしょにセミを採りに行こうと約束をしようと思う。少しでも前を向いているためには、必要な約束だから。  雅は何処を向いて歩いているのだろう。ふと疑問に思う。果たして彼女が歩く先は前なのだろうか。  いや、前であることはたしかなのだろう。未来は進むということであり、後ろが過去であるからこそそれ以外は在り得ない。在り得るとすれば、この疑問を正しく直すのであれば、彼女の歩いている何所が上り階段であるのだろうかという具合だろう。螺旋階段でも、形状はどうでもいいことだ。とにかく、彼女が上へ登っている確信がほしかった。  もしそうじゃなかったらどうなのだろう。もしそうじゃなかったら、上にしか歩けない僕では本当にどうにもできないことだとしか思えない。  どうしようもなく、雅に会いたかった。彼女の温もりを忘れたくはなかった。       ○  ○  ○  真昼だ。外は炎天下だろうな。  コーヒーを啜り、ほっと呟く。 「平和じゃの……」 「おじいちゃんみたいですね」 「病人はだまって寝てろ」  ベッドのほうに横たわっている美咲が声を飛ばしてきた。  そのベッドの縁に腰かける俺は美咲へ振り返り、ツンと頬を人差し指で突く。  ぷにぷに。おお、ものすっごく柔らかい。 「……屈辱的です」 「俺は最高な気分だ」  二人っきりの保健室なため、何かに臆する必要はない。そう、そうなのだ。今日こそはいつも以上に美咲いじりを堪能しちゃるけん。 「美咲、物事は良い方向に考えるべきだぞ。お前の親父さんと顔合わせするんだからスキンシップをとっている、とでも俺の心遣いを理解しないとな。謙虚さだ謙虚さ。お前にはそれが欠けてるんだ」 「ちょ、ちょっとマッテクダサイ。もしかして、本気で私のお父さんに会うつもりで……」 「ああ、徹夜で考えたスピーチをもう一回おぼえようかなぁ。親父さんの前で恥かきたくはないしなぁ」 「マジですか!?」 「冗談に決まってんだろ。バカばぁか」 「む、むぅ……」  ニヤリと浮かぶ笑みを抑えられず、俺は悪役っぽく下卑た笑い声を響かせて勝利の美酒を吟味する。 「――――ちょっとだけ、残念です」  しかし次の瞬間、開いた口が塞げなくなった。  かけ布団を胸元にかき集め、ムスッとしながらもどこか寂しそうに囁く美咲。彼女の細められた目にドクンと高鳴る何かを感じて、頭が真っ白になりそうなのを察しながら慌てて口を開いた。 「そういう意味じゃ、ないから」 「……え?」 「だから、お前んとこの親父に会いたくないってわけじゃなくて、ほら、これはただの冗談話で、冗談言うのをやめる的な意味合いで冗談だって言っただけで、ほんと、会いたいとか会いたくないってのとはまた別で」 「……フフッ」  俺に目を丸くし、元気な風に笑い声をあげはじめた美咲。  笑いを堪え、俺の顔を覗き込んだ彼女は、してやったりというように言った。 「冗談ですよ。バカばぁか」  言われた俺はぐぅの音も出せず、片手で目を覆い顔を天井へと上げた。 「……コーヒー買ってくるわ」 「って、え、ちょ、ちょっと!?」  背中にぶつかってくる声を受け流し、駆けて室外へ。  そのまま足を進め、舎外にでた。  ――俺らしくない。  俺らしいってなんだろう。ふと思い、しかし感慨に耽るのだけはやめておく。そうして校門から外に出て、すぐに建設されている自動販売機の前で立ち止まった。  目に留まるのは、親方コーヒー無糖のイラスト下。ポケットに入れた財布の所持金にとってはへでもない値段なのはどうということもなく、購入のボタンに浮き出ている文字が凝視の原因だ。  売り切れ。 「……っていうか、コーヒーメーカーあるんだから買わなくていいんだよな」  勢いで出てきてしまっただけなため、こうしてコーヒーを買わなくていいようになったのは都合が良い。  なんとなく、空を見上げた。  青い空、白い雲。平然と王道な言葉を思い描けていると気づき、前までならどうだったろうと思案する。  ――見ていない、か。  それを踏まえると、視野が広くなった気がしないでもない。道端の石ころや川の行く先に目移りすることも稀にある。  なぜだろう、答えはすぐにでてきた。 「美咲……」  来た道をもどり、校門からその先の美咲を脳裏に思い描く。  待っていてくれている、だろうか。  わからない。わからないが、それでもいい。  待っていてくれていると願って、俺は来たときよりも全力で駆け出した。       ○  ○  ○  6月14日 天気は雨  どうお願いしても通話させてもらえなかった。どうしてと尋ねれば、看護婦さんは目の奥の光を揺らがせて顔を背ける。  胸騒ぎはした。写真がただの薄っぺらい紙と成り果てる錯覚もした。  これを書き始める今までも、そして書き終えた今からも、俺は雅のことだけを考えて、眠ることはできないだろう。  不安で不安で息が詰まりそうだから、じっと彼女との写真を眺めていないと気が収まらない。       ○  ○  ○  がらがらという音を響かせ、ドアを開く。  室内に一歩踏み込んで、違和感を感じた。 「……美咲?」  静かすぎる。  人がいるということを疑わせるほどに。  少しだけ不安になった。  しかし、それは気のせいで終わる。 「は、はひー?」  返ってきた声の間抜けさに、俺は毒気を抜かれて微笑んだ。  駆け寄る。カーテンを脇へ押しやる。 「寝てろって言っただろうが、なんで起きてる」 「いやぁ、その……あはは」  しんどくなって来たはずの美咲は、ベッドの上に正座を崩した感じで座っていた。  失態を晒すのがどうかしたのか、苦笑い地味た表情で美咲がベッドに寝直す。  違和感を抱いた。正体が何かはわからない。ただ、ちらちらと俺の様子を伺う美咲に違和感を抱いたのだ。  これも、気にしすぎなのかな――俺は違和感を振り払う。 「ここ最近は、どうだ? クラスメイトとうまくいってるか?」  次の瞬間には、違和感がどういうものだったかさえ綺麗に忘れ去っていた。       ○  ○  ○ 「あっ」  コーヒーを買ってくるといって去った琢磨さんを追いかけようとして、私はイスを倒してしまった。  落ちるカバン。散らばる物々。やってしまったと落ち込むのは後に置いておいて、慌てて拾い上げていく。  ガチャボンのボールがあった。中身は小さなクマさん。ちょっとした気まぐれで挑戦したんだろうなと、その場景が浮かんでニヤニヤする。  ひょいひょいとカバンに投げ込んでいくなか、私はひとつのものだけ手放せなかった。  黒い革の手帳。表紙にはDiaryと金色の文字が刻まれている。  裏返す。名前を書く欄はあったけれど、何も書かれてはいない。表返す。先ほどと同じ文字が私を迎える。その隣に数年前の年号が書かれていると気づいた。  琢磨さんの昔の日記、といったところだろうか。  それだけなら気になりはしない。あの人、律儀にも毎日を記録してるのかぁ。怨まれたら一生呪われそうだなぁ、程度のことにしかならない。私が気になるのは、落ちた弾みで開いていたページ。それがあまりにも不可解で、気がかりなのだ。  ゴクリと唾を飲み、そのページを再度開こうとする。  欲するそのページは、容易く見つけることができた。  ゆっくり、読み上げる。 「6月18日。天気は晴。俺は彼女に別れようと言われた……?」  感じた不可解さは、たしかなものとして内に芽生えた。       ○  ○  ○  6月18日 天気は晴。  俺は彼女に別れようと言われた。  突然だった。久しぶりの通話だから話したいことがたくさんあったのに、彼女はキッパリとそう言っただけだった。  なんでと聞いても無言。  俺が何かしたかと聞いても無言。  俺が嫌いなのかと問うても、無言。  そうして、俺は理解した。いや、理解させられた。現実というものを。夢とは違う、現実というものを。  こうして一人になって、ほんとうの意味で一人になって、思う。孤独はとても寂しいものなんだなと。  孤独じゃなかった自分とはどんなだったかと思えば、まず一番に雅といっしょにいる自分が浮かんだ。繋がった手と手。人はほんとうに温くて、彼女はとても暖かだった。  俺は雅のいない生活なんて在り得ないのに、彼女とってはそうではない。  そのことがとても悲しくて、俺の世界に絶望が満ちたように感じ得た。       ○  ○  ○  本当はアポやらが必要らしいのだけれど、私は簡単に面会することができた。  学校だと優勝トロフィやらがしまわれていそうな棚。人一人が使うには大きすぎると思う机。その向こうに、月見里さんはいた。 「夜分遅くに、すみません」 「いや……それよりも、いきなりどうしたんだい、琢磨くんの彼女さん?」  月見里さんは、しわくちゃに年老いた穏やかな笑みで私を迎えてくれる。 「……月見里さんは、琢磨さんをずっと前から知っておられるんですよね?」 「ああ、ああ。そうだね、私は琢磨くんが医学生だった頃から知っているよ。彼の初オペも傍観させてもらった。 しかし、あんなことがあったせいで、彼は――」 「あんなこととは、なんですか?」 「おっと、これは失言だね。彼が知らせていないのなら、私が言えることではないよ」 「教えてください!」  恥ずかしそうに話題をぶち切る月見里さん。私は失礼と知りつつも、食い下がる。  そこに何かがあると感じ取っていたから。 「……知りたいんです。琢磨さんを」  琢磨さんが隠している何か。それを知らなくても琢磨さんを琢磨さんと見るのは変わらないし、琢磨さんを好きなのは変わらないし、琢磨さんが琢磨さんであることは変わらない。  ならなぜ知ろうとするのか、答えは簡単で率直で我侭。  琢磨さんを抱きしめたい。琢磨さんが寂しさを抱えているなら、それ以上の私の優しさで包み込んであげたい。  琢磨さんは私を支えて続けてくれているから、私は支えられているだけじゃだめなのだ。それじゃ一方的で、やはり私は所詮その程度ということになる。そうじゃなく私は琢磨さんが好きで、好きで好きで、どうしようもないくらいに大好きで。だからこそできることがあるはずで、いや、そうじゃないとできないことがあるはずなのだ。琢磨さんを慕う者にしかできない琢磨さんのためのこと。私は踏み込みたいと思っている、後戻りできない其処へ。 「君みたいな子がいれば、琢磨くんも幸せになれるはずなのだろうね」  月見里さんはいいよと頷き、語り始めた。 「……琢磨くんは、夢を見ていたんだよ。長い、輝かしい、夢幻(ゆめまぼろし)をね。 彼は掴んでいると確信していた。彼は共に歩いていると信じ込んでいた。ずっと前だけを向き続けて、夢という光に見惚れ続けて、そしてすべてが手遅れになってから覚ったんだ。 自分の両手は何も掴んでおらず、自分は誰とも共に歩んではおらず、自分はいつの間にか独りだ、とね。 彼に非があるのだろうけれど、結果的に誰も彼を咎められはしない。彼に愛された雅もまた、誰にも咎められはしない。今思えば、琢磨くんは焦るあまり早足となって雅がそれに追いつけなかったのかもしれないな。結局のところ誰が悪いのかは当事者にしかわからない。 君が琢磨くんを知りたいと思うならば、会ってみてはどうかな? 当事者の一人である、琢磨くんの想い人に」  月見里さんは最大最高の合いの手を差し伸べてくれた。  ――知りたい。  私は心の底から頷いて、月見里さんの手を取り、  扉を開ける鍵を、手に入れた。       ○  ○  ○  6月19日 天気は晴  雅に会いたい。雅に会いたい。雅に会いたい。  雅という字を書くだけで愛おしさが増す。雅、雅、雅。  雅と遊園地に行きたかった。幽霊屋敷に入ったら雅は泣き顔になるかなとか、メリーゴーランドに入ったら雅はとても楽しそうな顔をするかなとか、ジェットコースターに乗れば雅は俺の手を握ってくるのかなとか、いろいろ考えていたのに。  雅に会いたい。雅をもう一度見たい。雅にこの気持ちを伝えたい。  こんなイカれた毎日は嫌だ。こんな状況から逃げ出したい。彼女との日常にもどりたい。別れるなんて辛いこと、嫌だ。  もし。もし雅に会うことができたら。俺はどうするだろうか。  まず雅を抱きしめるだろうか。雅に愛を伝えるのだろうか。ひしと抱きしめて、気持ちを伝えるのだろうか。  夢見心地なあの日常にもどりたい。会えなくても幸せだったあの頃にもどりたい。  俺の愛がどれほどのものか気づかない雅が憎憎しい。だけど、そんな気持ちは彼女への愛に比べればあまりにも軽々しいもの。  会えば彼女を愛するのみだろう。彼女以外は見たくないばかりに、俺は雅が大好きなんだ。       ○  ○  ○  静まり返った党内。歩が響くのを恐れて、ゆっくりとした速さになる。  左手を伸ばす。ドアノブに届く。指先がドアノブに触れる。警告するように、ビビッと恐怖が走った。お腹の下辺りが鈍く震える。足元がふわふわしている錯覚。動悸を整えるように、だけど音をたてないように、静かに深呼吸。  覚悟を決める。私は鍵を懐から取り出した。鍵に表記されている番号とこのドアの番号とを見比べる。合致。  この奥に何かがある。  予想。いろいろ仮定は立つけれど、どれも結果とイコールできる要素がない。すべてが夢想。夢想など見る必要はない。なぜなら、目の前に現実があるのだから。  大きな音がする。集中がかき乱される。何の音かといらついて、自分の左胸からするのだと気づき、混沌としてしまう思考をクリアに還す。  ――――――開いた。  物のない部屋。ベッドがあるだけ。棚があるにはあるが、それに物が置いてある様子はない。しかしおかしさはあった。  におい。プールを思い出す芳香。何かを塗りつぶしているような違和感。  ベッドに近づく。ふくらみがある。ちょうど横たわった人くらいの大きさ。しかし寝息は聞こえない。微塵でも、呼吸ごとにふくらみは上下はするはずではないだろうか。違和感が募る。何かがおかしい。何がおかしいのかはわからない。見るももの嗅ぐもの感じるもの、すべてがおかしいのだけはわかった。違和感の要素はすべてでありすべてでない。すべてに違和感は含まれているけれど、どれかひとつひとつがおかしいのではない。  おそるおそる、触れる。  反応はない。手触りにおかしさはない。力を込めようとするが、本能的に無理だった。  弱い力で、ゆする。  立ち入ってはならないと声がした。しかし、私は会いたいと思っていた。雅という女性。日記からすれば琢磨さんの恋人だったであろう女性。話がしたい。聞きたいことがある。まず自己紹介をして、少しずつ拓馬さんのことを尋ねよう。雅さんが話したくないと首を横に振ったら、無理強いはせず少しずつ話してもらおう。 「雅、さん……?」  違和感が膨れ上がった。ふくらみに当てた手が伝えてくる。これは生きているものではない。しかしそれは在り得ないはず。矛盾。嫌な予感。  駆られて、布団を剥ぎ取った。  おぞましいものを見た。現実というものを見た。  死体とも形容し難い死肉の塊が、そこにはあった。  不快感。あまりの吐気に口を押さえる。香ってくるはずの腐臭はない。しかし、それを塗りつぶす芳香のほうがずっと不快だ。  ――雅という女性は、死んでいる。  ――拓馬さんが、殺した。  あまりにも自然に線が繋がった。断片というピースが埋まった。完成したパズルは、恐ろしすぎる現実の反映体。感じ得ていた違和感のすべてが目の前に在った。  次が浮かばない。何をすればいいのかわからない。呆然と立ち尽くし、そして私はわき腹に衝撃を感じた。 「え……?」  冷たい何かを感じた。それは嵐の前の静けさというもの。すぐに、激痛という熱が押し寄せてきた。  足から力が抜けて、ストンと尻餅をついた。落ちる視界。座るにも足の力がないため不可能。安定を保とうとする意識すらかき集められずに、さらに視界が落ちる。  下敷きにされた右腕。気にならない。激痛がすべてを埋め尽くしていた。視界は赤に染まっていた。激しい光の奔流が見えた。 「ごめん」  声が、した。  それは聞きなれた声で、この場で聞くはずのない声で、とても愛していた者の声で。 「たく……ま……さん」  なんとか搾り出した。反応。応えかどうかはわからないが、返ってくる。 「お前のこと、好きだったよ、美咲」  視界が最後の煌きを終え、黒に満ちていく。  熱さが消失していくと同時に、妙に苦しかった呼吸も消失した。世界が遠くなるのを感じる。今自分は何かを手離している。駄目だ。それは駄目なことだ。もどれ。もどれ。もどれ――そんな自分の声さえも遠くなる。  残ったのは響き。一言という残響。彼の優しい言葉。響きは駆け巡り、安らぎを満たす。苦しみなどどこにもない。私は微笑んでいるような気さえした。  最後に思ったことが何か喩えられはしないその時、私は意識を飛ばした。       ○  ○  ○  また殺すのか。声がした。誰の声かはわからない。自分の声か、それかまたは。  愛する雅に布団をかけなおす。できたふくらみを優しくなで上げて、何事かを囁いた。本人ですら何を言ったのかわからなかった。  後、雅の横たわるベッドの向こうを覗き見る。狭いそこには、もうひとつ塊があるはずだった。においはしない。消臭剤の芳香がひどく重い気がした。  視線をもどす。生死を彷徨っているだろう者が横たわっている。つらそうな息遣い。しかしそれでも美しいと感じ得た。  屈み、頬に触れる。  想い出が駆け巡った。美咲の微笑みをいくつも思い出した。  だから、疑問に思えた。本当に壊していいのか、と。  美咲と過ごした大切な時間。楽しかった日々。それ以上に楽しくなるであろう未来。  なくせるはずがなかった。虚無感に苛まれるのは、もうこりごりだ。 「帰りてぇ――何もかもなかったことにしてぇよ――」  感傷とともにある弱音。感傷をぶち切り、歯をかみしめることで弱音を断絶する。  何ももう手にはない。俺は地獄に落ちたのだ。世界を地獄から見上げているのだ。俺は最低最悪へと堕ちたのだ。絶望がある。しかし黒い希望もある。目の前に階段があるのだから昇ればいい。昇った先は、破滅と隣合わせとなってトチ狂う者の真髄。魔王。魔王になれば魔力をもてる。知性という魔力。暴虐という魔力。魔王になれば世界と対等となれる。もどれる。もどれはしないが、もどれる。たまらなかった。心底、魔王になりたいと願った。そうなれば今俺の住むこの地獄さえも心地いいのだろう。  なら、どうすれば魔王になれるのか。答えは簡単だった。強くなればいい。ただし、求める強さとは筋力でも何でもない。人間を超越した完璧があれば、誰でも魔王になることができる。  ならばその完璧はどうやれば手に入る。これも簡単だ。悪と友になればいい。善良を紡ぎ、邪悪を肉とし骨とし己とする。あまりにも簡単で、あまりにも残酷な手段。しかし、誰もがこの手段をえらぶ。この手段を強いられた者は誰もが同然。  俺は魔王になりたい。完璧が欲しい。邪悪を育てなくてはならない。  だから、美咲を殺さなくてはならない。 「やめろ――」  額を押さえた。薄ら笑いを浮かべている自分。いや、あれは自分ではない。悪魔だ。悪魔が俺となっている。俺を偽り、俺を演じ、俺の声をしゃべり、俺の手を動かす。俺は何れあれと同じになる。あれまで上り詰める。それを人は魔人と呼ぶのだろうか。抗う、欲する。同じ程で対立し合う。  俺は騎士。悪魔は王。騎士は王に絶対服従を約束する。抗えない。視線が美咲の腹部で止まる。  突き刺さった小刀。ドクドクと流出する血。止めねばならない。もっと切り刻まなくてはならない。思考が混ざり合う。俺が壊れた。悪魔が俺を騙りはじめた。  手が伸びる。やめろ、思う。しかし期待感もある。人を斬るのは作業ではない。そう、性交とおなじほどの快楽を得るための娯楽。あの味が忘れられなかった。もう一度味わいたかった。 「やめろ――」  搾り出す。同時、手が柄を掴む。黒い炎がめらめらと燃えていた。俺はその業火に焼かれ、人の皮を剥ぎ取られている最中だった。  総てが終わったとき、俺は悪魔となる。悪魔以上の悪魔となる。騎士から王となり、現王を殺す。新たなる王となる。総てを支配できるようになる。それはつまり総てを捨てるということ。だから俺は美咲を殺さなくてはならない。王となる道の障害。それが美咲。 「やめろ――」  殺せるはずが、なかった。  もう二度と失いたくない大切なもの。一度目は俺の手で葬ったわけではなかった。雅は和希に殺された。俺は雅を殺した和希を殺した。しかし失ったことはかわりない。だからこれが二度目。美咲を失うのが、大切なものを失うことの二度目。絶対に起こしてはならないであろうはずの二度目。  なくしたく、ない。  なくさねば、ならない。 「う……ううん」  呻きが聞こえた。視線を前へ持っていくと、苦痛に歪んだ美咲の表情があった。  途端、思う。思い、柄から手を離す。  なぜ殺さない――殺せるはずがない。美咲は、大切な人だ。  大切ってことの気持ち。大切ってことに込める気持ち。わかっていなかった。今わかった。  大切なら壊せるはずがない。大切だから壊せるはずがない。  大切に位置する存在の大切さに、俺は気づけていなかった。喩え雅の死んだ絶望が色濃くても、絶望を浴びるのが嫌になっても、到底壊せるはずがない。それが大切という存在。俺は軽々しかった。あまりにも愚かだった。  ならば、と考える。  ならば、和希にとって雅はどうだったのだろう。  部屋の入口へ向かい、カバンから二つのものを取り出した。  ひとつは和希の日記帳。  これを見たかぎりでは、彼は誠実な男だ。雅を大切と思っている。雅を愛していて、雅だけを見ていて、雅の幸せを願っている。俺が思うには、その印象が間違いなのだろう。  彼は雅を愛することで幸せだったのだ。雅が彼を幸せにした。和希は、雅に幸せをもらっていて、その幸せを和希は恋と勘違いしていたのではないだろうか。  つまり、和希は自分が大切だったから、雅が別れようと告げたときに狂ってしまったのだ。  しかしこの考えも、所詮は推測にすぎない。やはり真実は本人にしかわからないのだろうし、この真実は本人にすらもわかりはしないことなのだろう。  俺はその日記を、ふくらみの上に置いた。  そして、もうひとつ手にあるそれを見る。  日記よりも二回りは大きい、淡い黄色の薄い冊子。雅がこっそりと持ち始めていたアルバム。半端ほどで開けば、肌色の頁だけで何もありはしない。閉じて、次は一頁目を開けた。そこには肌色の頁にハマるひとつの写真があった。  俺と雅が、肩と肩がふれあいそうな距離ではにかんでいるそれ。感傷を思い出した。胸がきりきりと痛む。目を逸らしたい過去だから、当然といえば当然だった。  頁を一枚めくる。俺の激しい狂気が蔓延るその一枚では、雅が和希と腕を組んで静止している。写真。皮肉だった。俺とのツーショットの次に、別のやつとのツーショット。雅にとってどちらも大切で、どちらかがどちらか以上に大切だった。わかる。わかってしまう。とてもつらい。だから俺は狂う。  俺も和希と同じほどに狂っている。俺は一人、輝かしい夢を見上げていたのだ。彼氏のつもりだった。雅と共に歩けるただ一人の人間のつもりだった。だけど違った。雅は俺を見てはいたけれど、別段特別視していたわけじゃなくて。雅にとって俺は初めての友達というだけで、色恋沙汰を意識していた俺が馬鹿なだけだった。だから和希が許せなかったのだろうか。和希は雅に選ばれたのに、雅にトチ狂った。雅を幸せにはできなかった。雅から微笑みを奪った。雅から総てを奪った。その瞬間に生まれた感情は、憎悪以外の何物でもなかったと断言できる。だから殺してしまった、雅を殺した和希を、この手で。  悪魔は囁いてきている。美咲を殺して夢幻の世界を観ようぜ、雅が大好きだろう。悪魔の言うことは正しかった。だけど、真実はひとつではない。 「俺は――美咲も愛している」  だから、悪魔と決別するしかなかった。  それの意味するところ。つまり。 「――さよならだ。いつまでも此処に縛って、ごめんな、雅」  俺は懐からジッポライターを取り出した。あの頃と今頃を繋ぐ三つのもののひとつでもあるこのライター。雅が和希に渡した。俺が和希を殺したときに手にした。そして今、雅の元にもどる。  ライターの火を点ける。ゆっくりとアルバムに近づける。燃え移る。赤々と、赤々と。少しだけ見惚れて、日記帳の乗るふくらみの方へ放り投げた。  小さな火が大きな炎へ燃え膨らんでいく――さよならの言葉を心の中だけで呟き、俺は美咲を抱えて、  未来(まえ)へと、身を翻した。       ○  ○  ○ 「ねぇ、和希さん」  その呟きを聞いて、俺は屋上のドアに伸ばした手をピタリと止めた。  声の主がだれかは、すぐにわかった。雅だ。このソプラノ声に普段から穏やかさがあるのはそう稀だから、間違えるはずがない。  和希。雅の病室によく現れる学生の男。何度か会話したことがあったなと思い返す。 「ひとつ、お話ししなくちゃならないの」  ドアの向こうがどんななのか、見れなかった。見れるはずがなかった。見たいとは思った。隙間から漏れ出してくる雰囲気がその場の緊迫感と憂愁感とを伝えているため、余計に。 「……私、やっぱり死んじゃうの」  震え、涙を堪えるような雅の声。俺は彼女の御前に駆けつけて、彼女を抱きしめたい衝動に追い立てられた。  すかさずドアノブに触れ―― 「死ぬまでの残りの時間、俺は雅といていいのかな?」  何、馬鹿なことを言ってるんだ。俺は憤怒をおぼえた。雅に甘い言葉をかけていい権利が和希にはないと思った。 「……いっしょに、いてくれるの? どうせ、私は死んじゃうんだよ? どんなに幸せになっても、死んじゃうんだよ? ほんとうに、いいの?」 「当たり前だ。俺は――その――み、雅のことが、好きだから」 「……ありがとう。とっても、嬉しい」  静まった後、馬鹿なのは俺なのだと気づいた。  息が詰まる。知りたいと思ったドアの向こう側が、今は一番知りたくなかった。  いくつも浮かぶ情景。そのどれもに苛立つ。俺は一歩下がり、二歩下がり、逃げ出すようにして階段を駆け下りた。  このとき、たしかに俺の心には殺意が芽生えた。 「ねぇ、拓馬さん。男の人って、何が好きなのかな?」  幸せそうにひとり微笑むことの多くなった雅が、病室での点滴の時間に俺に尋ねてきた。  誰に渡すのかは予想がつく。固まりそうになる表情を無理やり笑顔にして、首を横に振る。 「相手にずっと持っていてほしいのなら、相手のことをよく考えて買わないとね。俺に聞いてはいけないよ」 「そっかぁ……ありがとう、拓馬さん。いつも話聞いてもらってるね」  ありがとうと言う彼女は、本当に素晴らしい微笑を浮かべているのだろう。  しかし、俺は雅を直視はできなくて。曖昧に頷くことしか、できなかった。  雅の小さな鼻歌が聞こえてきて、俺は彼女に見えない位置で強く拳をつくる。  このとき、確かに俺の身は黒い炎に撫で炙られていた。 「……みや、び……?」  踏み入ったその領域は、血の飛び散る惨状だった。  目を背けるということが思い浮かばず、ただ呆然と目の当たりにして立ち尽くしてしまう。 「……拓馬さん、ですか」  べっとりと頬を血で汚す和希が、俺に振り返ってくる。  その片手には、鈍い光を返すナイフが。 「何……してんだよ」  俺は、俺自身びっくりするほどに低く落ち着いた声を発した。  和希は俺に向いている。その背中には、先ほどまであるものが見えていた。そのあるものとは、酷く美しくもおぞましい、動かなくなった人間のつくる芸術。  信じられなかった。信じ難かった。信じられるはずがなかった。しかし現実がそこにあった。現実と現実をつくったものが、そこにはあった。俺は五指を握りこんだ。 「――っ!」  無我夢中になって、目の前の憎い存在を殴り飛ばした。  柔らかい肉にのめりこむ感触。何処を殴ったのか、わからなかった。ただ、今の一発で自分の中の何かが崩壊した。崩壊した何かから黒く暗い奔流があふれ出し、俺を満たす。俺は、床に倒れる和希に目を剥いた。  起き上がろうとするそいつに圧し掛かり、顔を渾身の力で殴る。一発や二発程度じゃなく、何発も何発も感情のままに。  殺意が刃となるのを感じた。殺意が拳に伝わって、拳を刃としているのを感じた。刃が何かを抉るのが、爽快で仕方なかった。だから殴るのをやめられはしなかった。  あるとき、俺はハッと気づいた。  取り返しのつかないことをした――俺は立ち上がり、出口へ一歩退く。  俺の視界の惨状には、死体が二つも転がっていた。  身を丸めて、耳を塞ぎ、目を閉じる。現実は遠くなるけれど、離れはしなかった。  俺の生きる世界が地獄と変貌したのがわかって、 俺は絶望に満ち溢れた。  失った。  手の中に何もなければ人は死ぬ、と思っていた。  なのに、俺は死ななかった。  俺は生き続けていた。  タバコに火を点ける。  吹かし始めて、タバコに火を点けたライターにぎょっとした。  普段使っている使い捨てでなく、ジッポのもの。何物なのかはすぐに思い出せた。俺の殺したあいつの物。吐気がこみ上げる。億劫。ニコチンが紛らわせる。  おそるおそるライターを懐へともどし、両腕をフェンスに乗せてぼぉっとする。 『ねぇ、和希さん』  青い空には、一辺の曇りもない。  陽射しの暖かさが、とても心地良い。  たくさんのシーツが干されているこの屋上は、少し前までは俺だけのお気に入りだった。  病院内は居ずらいというのが本音なのだけれど、それは医者という俺の立場があるため伏せておく。 『ひとつ、お話ししなくちゃならないの』  そう、そうなのだ。  あれから少ししか経っていないのに、  この場所は、俺と彼女との、二人のお気に入りになった。  つまりは、せっかくの秘密基地を別の子にも占領されていたと知る子供の立場。そうなのだが、自然と悪い気はしない。  占領しにきたその子が好きな相手だったから――うん、これが妥当な解答だろう。  咥えたタバコをつまみ、空の彼方を見通そうとしてみる。 『……私、やっぱり死んじゃうの』  夏に近いこの日の陽射しは強いというのに、頬に伝うものを乾かしてはくれなかった。  この場にこんなにも何もないのは、総て俺のせいだった。  トチ狂った者は死ねるはずなのに、俺は死ねない。総ては、俺の罪に対する罰なのかもしれない。 「くだらない――」  吐き捨てるのは簡単だった。うんざりだったから。やりきれなかったから。苦痛を抱いていたから。  認めたくなかった。認められるはずがなかった。あのときにも絶望は抱いていたはずだ。今と濃度は格段に違うけれど、あのときにも別の未来を望んでいたはずだ。  愚かな自分。自嘲、あまりにも下卑た風に浮かぶ。  昔の俺がもどってきた。昔とは足りない何かがあった。だから、  たまらなく――"光"が恋しかった。       ○  ○  ○ 「う、ぁ……ん」  身動ぎした。身体の節々が解され、甘い刺激が伝わってくる。  ゆっくりと目を開ける。光に目が慣れて、視界に景色が映る。 「起きたかい」  白い天井から目を下ろしていく。月見里さんがいた。月見里さんが微笑んでいた。上半身を起こす。腹部に痛みが走る。包帯が巻かれていると気づいた。そして、まだぼんやりとしている思考回路がパッと覚醒した。 「……どうなりましたか?」 「騒ぎにはなっていないよ。元々、あの部屋は特定少数の者しか知らないからね。私が上手く取り計らっておいたから、大丈夫」 「拓馬さんは今、どうしています?」 「さあ、どうしているだろうか。嘆いているかもしれない、悲しんでいるかもしれない、絶望しているかもしれない。わからないね。推測はできるのだけれど、どれが正しいのかわからないよ」 「説明していただけますか? 色々と」 「ああ、ああ。いいよ。少し私の個人的主観がはいるかもしれないけれど、いいかな?」 「月見里さんは信頼できる人ですから」 「嬉しいことを言ってくれるね」  微笑みが強い。しかし、どこか無理やりな感じがする。月見里さんもきっと疲れているのだと思った。 「元々雅は身体が弱くてね、中学生活はみんなよりも一年少なかった。もちろん、一年生のときに入っていたクラブからは退部扱い。二年生は一度も登校できなくて。三年生になってようやく登校できるようになったのだけど、雅は独りぼっちから抜け出すことはできなかった。同学年の者たちにとっても、雅は近寄り難い存在だったのかもね。雅は少し人見知りなところがあって、そのせいで自分から話しかけることもできなくて。そうして雅は、一人も友達を作れぬまま中学を卒業した。高校からはがんばると、雅は言っていたんだよ。入学式の日もがんばると言って家を出て行った。そして、にこにこ顔で帰って来た。私はとても嬉しく思った。これで仕事のほうに専念できると思った。そのときまでに、雅にはただひとり友人がいた。まだ医師に成り立てで、私が面倒をしていた、琢磨くんだ。私は、ただひとり雅の心を支えられる者だろうと見込んで、琢磨くんを雅の担当とした。琢磨くんは雅を担当していた、この病院の医師だったんだよ」 「……続けてください」 「琢磨くんは親身になって雅の相手をしてくれた。雅も、琢磨くんの前だけは自分自身を引き出せていた。何が理由だったのかな、いや、ただ単に触れ合う時間が多かったせいなのかもしれないが、琢磨くんは雅に恋心を抱いた。しかし、琢磨くんはいつもどおりを演じて雅に接し続けた。だから雅は気づかなかった。雅にとって、琢磨くんはやはり友人だったんだ。 そうした食い違った関係のまま、しかし時は穏やかそうに過ぎていった。雅は高校一年目の序盤は通院だけで済んだ。だけど、何かがスイッチになって、雅は突然倒れた。 そうなってからようやく、私と琢磨くんは知ったんだ。雅には親しい男の友人がいるんだと。 その者は和希という名で、彼のことを話す雅はどこか夢見がちだった。私は気づいた。琢磨くんは気づかなかった。いや、気づかないフリをしていた。 いつからか琢磨くんも目の当たりにする何かから目を逸らせなくなって、雅に対しての意欲が希薄となった。雅と触れ合う時間を極力減らした。それがいけなかった。彼が今までどおり雅を見ていれば何もかも上手くいったのだろう。和希くんは雅に別れを告げられた。雅の症状が悪化して、雅は何かを決意したんだろうな。和希くんは雅の気持ちを汲み取れず、悲しみに溺れた。絶望に溺れた。損失感は、やがて殺意を孕ませた。行動を起こすのにそう時間はかからなかった。私は総てが終わったあとに知った。終幕したのちの舞台に、私は立った。そして、 死んだ雅の姿と、死んだ和希くんの姿と、自失した様子でゆっくり私に振り返る琢磨くんを見た。 和希くんが雅を殺した理由は、愛していたからなんだろう。好きな人だから自分のものにするために殺す、無くなることがないように。琢磨くんも同じだった。彼女が死んだと理解しつつも、わからないフリをし続けた。だから、あの場所をあのままにしていた。私では琢磨くんを変えることはできなかった。しかし、美咲くん、君は琢磨くんを解放した。君が琢磨くんを救済した。 これが、全貌だ。なかなかどうして、何が悪いのか、誰が悪いのか、定まらない」  月見里さんは能面のように表情を固めていた。 「……誰もが狂気していたんですね。否応なしに、相手を好きと思うあまり」  罪深いことなのだろう。愛という光の形が、恋という光の形が、それ相応の闇も形作る。光では抱く。闇では狂う。ちょっとした表現の違い。幸せの硬度の違い。快楽か悦楽か。明るいか暗いか。同じなのに同じでない。和希という人も琢磨さんも、見間違えたのだろう。同じすぎる二つの幸せの在り方を、気付かぬ間に見間違えて仕舞ったのだ。 「誰もが狂気していた、か。とても正しいね。 それはそうと、私は君を祝福したいとおもうんだけれど、受け取ってもらえるかな?」  月見里さんが、柔らかい笑みを浮かべて懐から何かを取り出した。何かが何なのかはわからない。月見里さんの拳がその何かを隠していた。  私はおそるおそる両手でおわんをつくり、伸ばす。 「君の言葉はほんとうに正しいよ。なにせ、私も琢磨くんや和希くんのように狂っているのだろうからね」 「……え?」  両手に、コトンと何かが落ちた。  ぶよぶよとした、スライムを思わせる何か。お腹の下のほうがざわめく。私は月見里さんの手の向こう側を凝視した。目が離せなくなった。その最中、ゆっくりと月見里さんの手が退かされ。 「ひ――!!」  見ることを拒絶して、放り捨てた。目蓋の裏に残る映像に、こみ上げる吐気。 「おやおや、そんな扱いをしては可哀想だよ。琢磨くんの身体は、それ以外すべて燃やしてしまったんだから」  凄惨な笑み。冷たい熱を帯びた声。月見里さんは手をポケットに突っ込んでいた。錯覚だと笑い捨てられないほどに、兇器の有り無しを判断できる。 「私は、雅の父親なんだ。あの惨状に立って、私は誓った。雅を死なせた者からも大切なものを奪ってやろうとね。わかるかい。君だよ」  どうしようもなく、恐い。 「そう恐がらなくていい。ただ、琢磨くんと同じところにいくだけだから」  月見里さんが琢磨さんを殺した。怒りを抱く。憎悪する。月見里さんはさらに私をも殺そうとしている。恐怖を抱く。畏怖してしまう。感情がない交ぜになる。どうしようもなく、どうしようもなくなってしまう。  一歩、また一歩とにじり寄ってくる月見里さん。微笑。私は、刻々と壊れ行く自分を感じた。       ○  ○  ○  血みどろで泣く少女  堺谷市星章病院の医局長を殺害したとして、29日、高校一年の愛乃美咲容疑者(16)を逮捕した。愛乃容疑者の供述はあいまいで、明確な動機は判明していない。捜査当局は専門医による精神鑑定を進め、供述の裏付けを急いでいる。同日付に起きた火事騒ぎとの関連性も現在調査中とのこと。  関係者によると、愛乃容疑者は部屋の隅にうずくまって泣きじゃくっていて、手のつけようがないほどに自失していたとされる。  愛乃容疑者は8月下旬ごろまで医療施設に収容され、専門医による鑑定を受ける。捜査本部は供述の裏付けなど動機解明に向け慎重に捜査する方針だ――       ○  ○  ○  心地の良い世界だと思う。  暗いこの個室。牢屋といわれ、反射的に嫌だと思ってしまったけれど、体感してみればその印象は変えなくてはならなかった。もちろん物は何もなく、外界から隔絶されている。それがこの世界の利点といっていい。そう、此処は世界と表してもいいのだ。  この世界は心地良い。  この世界には安らぎがある。  この世界には、憎しみがない。  この世界には、私しかいない。  私以外には何も無いことがこんなにも素晴らしいとは、思いもしなかった。  怖いものは何も無い。  ただただ愛したい者を思い返して、彼と歩くことを夢見ていれば幸せでいられる。  予想外なことはひとつも起きないし、故に何も壊されない。  気まぐれに、少しだけ現実を思い出してみた。 「う……」  同時、キリキリと頭が痛み始める。  たしかに、真実や現実はどうでもいいものだ。私の奥にいる"私"はよくわかっている。わざわざ苦い物なんて食べる必要はないのだ。好きなだけ甘い果物を食せばいい。誰にも咎められはしない。だって、この世界には私ひとりしか存在しないのだから。  ……さあ、今日も夢を見よう。  私は背中から倒れ、天井を見上げる。  ……安らかに、眠ろう。  目蓋の裏と景色は変わらないから、すんなり目を閉じることができた。  目を閉じてから、ひとつ思うことがあった。  今は幸せなのか。たしかに、昔は刺激的な毎日を過ごしていて、胸をどきどきさせていた気がする。  だけど、それも良いけどと私は思う。  何にも苦しむことのない毎日に、私は幸せを断言できる。だから、昔などとこだわる必要は無い。  私は、何も見なくていいこの世界が好きなのだ。  私は疲れた。あの世界に絶望することに。あの世界で絶望することに。  羽を休めたい。もう傷つきたくない。もう悲しみたくない。この世界はそんな欲求に応えてくれた。  ひとりぼっちなことは気にならない。  気になるはずがない。  なぜなら、どちらにしてもあの世界でも独りぼっちなのだから。  帰郷すべき場所には、もう何も残ってはいない。  楽しかった日々の名残は、記憶にしかない。    THE END...