【タイトル】  手を繋げば僕らはつばさ 【作者】  水瀬愁 【管理】  小説家になろう[ウメ研究所] 【ジャンル】  恋愛 【種別】  短編小説 【本文文字数】  10162文字 【あらすじ】  一人では飛ぶこともできない。僕と彼女は小鳥。二人なら飛ぶことができるか。手を繋げば僕らはつばさ。 注意 小説には著作権があります。この小説を無断で再配布・転載する事は著作権法で禁じられています。 (C)水瀬愁 ************************************************  僕が彼女に出会ったのは大学一回生の夏だった。  どしゃぶりの雨が降る中、僕がさきに駅のプラットホームに着いて、彼女があとからやってきた。  両者びしょぬれ。なんとなく目が合って、はにかみ合う。  そのときの僕は、胸元を隠す彼女に見惚れてしまっていた。  僕が好意的な目を向けていたのは見え見えだっただろう。それでも彼女から話しかけてきてくれたのだから、友情では終わらない物語の幕開けを期待してしまっても仕方ないはずだ。  仔犬のようなちょこんとした仕草がいちいち可愛くて、ちょっとしたギャグでも鈴のような声を鳴らして笑ってくれる。  強くて、だけど清楚な光を想像させる。来ない電車を待っている間、口は絶えず動き続けた。  最後に震えそうな声で名前を訊く。彼女は上目遣いで僕を窺いながら、 「ゆうか。優しい花って書いて、優花」  と笑った。  好意はあれど現実は難しいもので、僕と彼女は近づきも離れもせず一年近くを過ごす。  三回生昇格を目前にしたある日、自室で暇を持て余していた僕は彼女からの電話を受けた。  ♪♪♪ 『一体、何があった?』  どしゃぶりの雨の日、泣きじゃくる彼女から必死に聞きだしたことをまとめると、親と口論して家を飛び出したらしい。  行く当てもなく、金も少ししか持っていないようだ。 『じゃあ、僕のところに来るかい』  渋る彼女に、あの駅で待っていてと言い残して強引に通話を止める。  すぐに家を飛び出し、雨水をびちゃびちゃ跳ねながら疾走する。力強い太鼓の音を間近で聞くような、迫力のある雷鳴を三度耳にした頃あのプラットホームに立ち尽くす彼女を見つけた。  寂しげに顔を俯かせていた彼女は、僕を見つけて一瞬だけ表情を明るくする。  しかしすぐに視線を逸らして顔を伏せてしまった。仕方なく僕は、彼女の隣で空を見上げる。今夜は満月が明るい。ポケットからガムを取り出して口に入れ、彼女の方を向いた。  僕は、彼女の目が潤んでいるのを見てしまった。自分の靴を見下ろして、ぎゅっとくちびるをかみしめて、涙をこらえるその姿に、僕の心は揺れた。守ってやりたい。そんな気持ちが駆け出す。止められない。本心だから。  涙がこぼれないように気を張りつめて、その気すらも崩れんとしている儚げな姿は、ほんの少しでも触れたらあっという間に壊れてしまいそうで怖い。 「僕に、君を護ってあげることはできないか」  言ってから、不安になる。彼女は少し考えたみたいだったが、今までに見たことのない大人びた笑みを浮かべて頷いてくれた。  気が付くと優花を抱きしめ、その柔らかく、しっとり濡れるくちびるをむさぼっていた。 「でも、私はあなたに護られてあげられないわ」  余韻に浸って、彼女の体の輪郭を自らの身体で確かめていると、彼女が僕の胸板に指を這わせながら見上げてくる。 「なぜ?」 「私、みんなみたいに飛べないから。飛べるフリをしているだけなのよ。 飛べなくなっていく鳥は、何時しかどうなると思う?」  地面に打ち付けられて、そして……彼女の目が細められた。  僕たちは付き合い始めた。ちょうど、僕も前の彼女と別れてひと段落していた。一人暮らしの僕は物置きにしている部屋が一つ余っていたので、彼女と住まうことは簡単だった。ただ、周りには公表しなかった。一言も、絶対に言うことはなかった。表情にも表すことはなかった。  なぜなら優花はメンヘラー。僕自身がその事実を抱えこむので、精いっぱいだったから。  付き合い始めてすぐ、彼女は身を投げるつもりであることを僕に明かした。  理由も何も言ってくれない。つらいからと、ごめんねと、それだけを彼女は何度も言う。  優花の心は、僕の元に無かった。僕と付き合ってる優花は蜃気楼みたい。見えていても、掴めてはいないのである。  では、どうするか。  自分ではどうすることもできないと、割り切るのは簡単だ。でも、そうすること良いとはどうしても思えない。僕は彼女の魅力に惹かれている同時、彼女を失いたくないと執念を燃やしている。今までにないくらい恋焦がれていて、彼女の生を己の付近に縛り付けていたいと思っている。  では、覚悟するか。  僕はある夜、彼女の部屋に訪れた。突然来たことで驚かれたが、簡単に招き入れもらえた。  自分の家の一部とは思えないほど、小奇麗で可愛らしい。家出の際にスポーツバックに詰めてきたようで、僕の出費は彼女用の歯ブラシくらい。  女の子っぽい部屋だ。だが違和感がある。本当の優花を知っているからこそ感じる嘘っぽさ、と言うべきか。 「優花。僕は、君に消えてほしくない。でもどうしても消えるというのなら、残さないでくれ」  優花に片手を見せた。親指と人差し指の付け根の間に、ガーゼが押さえつけられている。優花はハッと僕の顔を覗き込んだ。あなたもなの? と語ってきている。 「飛べない鳥の気持ちは、よくわかる」  そう言って、優花の細い体を抱きしめた。あまり強く抱くと、骨が折れるんじゃないかと言うくらいに華奢だ。でも優花は、強い力で僕の背中に爪をたてた。優花の苦しみの一部が僕に流れ込む様。優花は僕の胸板に顔を押し付けて泣いた。嘘を吐いたことに、少なからず胸が痛んだ。  僕は、優花と同じ願望を持っていない。わざとそれらしいように傷をつけて、優花と同じであると思わせただけだ。  飛べない鳥の気持ちなんてわからない。だから教えてもらわなければならない、いつかは必ず。けれども今は、共に居ることを優先して彼女に嘘を吐いた。  今日もまた、あの日のようにどしゃぶりの雨が降っていた。  それからというもの、僕と優花はそれまで以上に頻繁にくっ付くようになった。主に優花から。優花は僕の家から大学に通い、僕が帰宅しようとしたときには必ず迎えに来てくれている。  それで友達にちやほやされるが、自慢するのは憚れる。嘘で築く物は所詮、嘘ということか。  嘘で優花の気を引き、僕と優花は恋人という嘘の距離の"同種" 優花にとっては本来の自分を引き出せる唯一の居場所なのかもしれない、とてもつらいことだけど。 「知ってるか、優花。お前、僕の友達に美女って称されてるんだぞ」 「へぇ」  興味の無さそうな声。 「褒められるのって、嫌いなのか?」 「そうでもないけど、でも、嬉しいわけじゃないから。テストで満点取ったと嘘を吐いて、それを褒められても、何か引っかかるものがあってしまうでしょう?」  それは君が善い人だから。ぎりぎりのところで飲み込んだ。この類のことで言い争ってはボロが出そうだったから。口を閉ざして、僕は海に優花を連れ出すこととした。  冬を越えて春に近づく海の色は、そこはかとなく淡い。夏のときの圧倒的な存在感が感じられないのは、夏のようにたくさんの意識を向けられていないからか。  でも、都会とかけ離れてどこまでも続いていそうなその景色が、僕はお気に入りだ。 「綺麗ね。ここに、身を沈めようかしら」  優花がじっと海の彼方を見通さんとする。僕はその横顔をじっと見つめる。  そうやっていつもいつまでも僕の指の間をすり抜けていって、彼女は辿り着いてしまうのだろうか。僕に掴ませてはくれないのだろうか。  涼しげで爽やかで、良いなと思っていたさざ波の音が、今はどしゃぶりの雨と同じに聴こえる。  ♪♪♪  バイトしている僕と違って、優花はサークル活動をしている。  そのきっかけになったのが高校時代の部活動らしく、優花は道端で偶然、昔の部長に再会したそうだ。 『それで義之ったらね……』  義之というのが、その男の名なのだろう。呼び捨てにして、嬉しげにしゃべっている優花。その話を携帯越しに聴いているうちに、胸の内で黒い炎が燻り始める。 「ずいぶんうれしそうだね」 『だって、白馬の王子様みたいなものだもん』  王子は、キスをして姫を変える唯一の存在。そんなものに義之という男を喩えてしまうなんて、優花が解らなくなる。 『あ、それじゃ、今晩は遅くなるだろうから、てきとうに食べといていいよ』 「待っ――」  プツンと切れてしまう。その直後に聞いた、優花を呼ぶ男の声。  義之と会うのかい、優花。  バイトを終えて部屋に戻ると、誰も居ない静寂の世界が在った。久しぶりの独りっきり。僕は照明も付けずに拳を強く握り込む。  不安だった。義之という男に会うことで優花は死ぬことを思い止まるのではなかろうか。生きようと思うのではなかろうか。そのままあの男の元から離れなくなって、僕を忘れて――  そんなこと在り得てはならない。優花は僕といっしょに死ぬんだ。 「(生きようだなんて、思ってないよな優花……もし義之という男との間に嘘は無いとしても、今お前を包んでいるのは嘘だけなんだ)」  真実と信じる僕でさえも。そこまで考えることはやめて、ただただ優花のことを考える。  呪うように。死の呪いをかけるように。  しかし、それは杞憂だったと知る。夜の色が濃くなってきてから帰ってきた優花は、ニコニコしながら言った。 「海に沈むよりもね、空を飛ぼうと思うの。沈んでいくのだと、心ですらも絶望に向かってしまうわ。空を飛べば、心は身体から解き放たれて、こんな世界からおさらばできると思うの」  そう、そうだ。優花とはこういう人物だった。僕はなんて無駄な不安を抱いてしまったのだろう。  哀れ。優花の死に方を変えさせるだけの力しかもっていない、哀れな義之。  所詮僕と同じ――その程度の、人間だったか。 「それは良い案だね、なら、快晴の日をあえて選ぶことにしようか」  うんと頷く優花。僕は今になって、彼女を呪ったことを後悔した。  好きなら、彼女が生きようとすることを願うべきだっただろうか。  しかしその気持ちも、義之という男を思えばあっさり消えうせる。  僕じゃ救えない。でも、僕以外の男に救われてほしくはない。  僕はどうしたいのだろう。優花の頬に触れた。それを優花は要求と受け取ったのか、淫らかな色を帯びた瞳をして僕にキスを返す。  答えを知るべき問題も、快楽に委ねた僕にはもう残らない。  まるで僕たちを止めるように、それからは雨の日が続いた。  今日もまた雨が降っている。しかし、ラーメンが大好きな優花のため、電車に揺られて遠く遠くへ。労力をかけた甲斐もあってか、有名で美味いと友達が絶賛していたそこのラーメンは最高の味だった。優花もお気に召したようだった。  腹ごなしに街をぶらぶら歩いていると、高校のときの同級生だった南村(なむら)に会った。 「久しぶりだな。」  南村は、子どもを抱いて歩いていた。ぎょっと驚いて、尋ねる。 「結婚したのか?」 「あぁ。去年の春に。これが娘のすみれ」  そう言って、腕の中で眠る子どもを指さした。 「お前、今、何してるんだ?」  南村が訊き返してくる。僕はコホンと咳払いを一つ、優花の腰に手を回す。 「京都で大学生だ。で、これが彼女の優花」  そう言うと、優花は頭を下げた。僕にも一度向けたことのあるお辞儀は、仔犬のようなちょこんとした仕草でいちいち可愛い。 「きれいどころじゃん。ちゃんとマーキングしてんのかコノヤロウ」 「あったりめぇじゃねーかよコンニャロウ。几帳面にも、毎日マーキングし直してるぜ」  グハハと笑いあう。すると、南村はほっと思い出したかのようにポケットからチケットを取り出した。  と思ったら、違った。遊園地の回数券らしい。 「嫁も娘も、人が賑わう場所が苦手でな。もらってくれ」  意外だった。南村はクラスで笑いの中心にあるようなやつで、おそろしいくらいの芸人面だったから、穏やかな人をもらっているなんて。実際こいつの高校時代の彼女はこいつっぽいにおいが漂っていた。  南村が去るのを見送った後、優花は僕の顔を見上げて何か言いたそうにする。  疑われただろうか。だが、たぶんまだまだ大丈夫な程。優花は賢い部類に入るから、僕が何かしら言うよりも、当然という顔をしたほうが勝手な解釈をしてくれることだろう。 「最後にさ、行かないか」  彼女は少し考えたみたいだったが、今までに見たことのない大人びた笑みを浮かべて頷いてくれた。  七月下旬、僕たちは遊園地に遊びに行った。高校生が夏休みに入ったばかりだから人が多く、気疲れがたまったが、夜を待ってから最後に乗った観覧車は最高だった。 「せっかく今日は快晴だったのに、死に時を逃しちゃったわね」 「この綺麗な星空と街頭に彩られる街を見れたことと比べれば、一日程度どうってことないさ」 「残念。明日はまた雨らしいわよ」 「またかい?」 「こんなに待たされると、そろそろ、どうでもよくなってきちゃうわよねぇ」  驚いて、優花の顔を覗き込む。 「やめるのか?」 「そんなこと、ないけど」 「でも、死のうって気持ちが薄まってきたんだろ?」 「そういうわけでも、ないけど」 「じゃあ、なんでそんなこと言ったんだよ」 「義之が頑張ってるの知ったら、なんか違う気がして――」 「何が違うっていうんだよ」  いらつく。黒い炎が、燻るだけでは飽き足らず、僕の内で大きく燃え上がる。 「僕もお前も、その義之って奴とは違う。ぐんぐん前に進んでいる奴を見て、負けてられないと闘志を燃やすのは勝手だけど、飛ぶことができなくなる翼で何をするって言うんだ。全部、嘘のくせに。 嘘は、そう簡単に取れない汚れなんだぞ。それに汚れ過ぎたお前は、どう足掻いてももう救われない。呪いは解けない」  そこまで言ってはっとした。違う、こんなことを言いたいんじゃない。しかし、気付いたときには遅かった。  ゆらりと顔を上げた優花はくちびるをかみしめていた。しかし瞳は光を返しておらず、発してもいない。優花は僕の顔を見ると、こう言った。 「あなたの言うとおり。私、自惚れてたわ」  違う――違うんだ、優花。  口にしたら総てが壊れてしまうから、口は震えるだけ。観覧車の残り半周、僕たちは黙りこくったままお互いを見ることはなかった。  僕は拳を握り締める。今できる、自分への罰のつもり。  呪いは解けない。死の呪いを優花にかけたのは、まぎれもなく僕なのだ。二度も、優花を誤った道に導いてしまった。  どこで間違えてしまったのだろう――僕の愛は間違いなのだろうか。  何が虚構で、何が真実か。虚構なことが多すぎて、もう分からない。  ただただ、胸を占める感情が一つ。この世界から消えたい願望。死神の手が僕の腕を引っ掴んでいた。僕のもう片手が何を掴んでいるのか、考えるまでもない。  次の日。僕はなんとなく優花と話したくなって彼女の部屋に訪れた。ノックしても返事が無い。おそるおそるドアノブを回すと、その先には誰もいなかった。  出掛けているのか。雨が降っているのに、陽気なのだな。いないのなら致し方ないと、諦めて出直そうと思ったその時、開きっ放しの携帯が机の上に置きっぱなされているのが目にとまる。  閉じてあげよう。ずかずか部屋に入り込んで、別の物に意識がいってしまう。  机に備え付けられている本棚に、[DIARY]という金色の文字が輝くノートがあった。優花はこんなものを付けているのかと、感心六割興味四割で手をそちらに伸ばす。  ペラペラと、目を通した。  一頁に何日分かが二行や三行で書き留められていて、そう読み応えはなさそうだ。  しかし、内容は高校生に入ってから暗くなっていく。  いじめられていた。物を隠されて、暴力に晒されて、独りぼっち。気持ちを汲み取ってくれる大切な人ができたかと思えば、その人にとってはゲームにすぎない恋人ごっこ。その人は、いじめっ子とは違うやり方で金を搾り取ってくるだけの偽善者だった。  いじめとは言えないレベルのものも記されている。リストカットの強要、禁止されている援助交際に狩り出され、万引きも駄菓子や食品というレベルではなくアダルトビデオの類――  そんなことをされ続けて辿り着く一つの終着点というように、二頁で綴られる優花の想いがある。  読み下していって、一番下に辿り着き、僕は目を見開いた。 『死にたいとは思わない。死んでしまえば、とても悲しむ人を残してしまうから』  ――優花は、どんな気持ちでこれを書いたのだろう。  苦境の中で、彼女にとって大切な物。  ――優花はその物を、宝物のように大事にして、胸に抱いて微笑んでいる。  嘘偽りのない彼女を、垣間見た。  僕は優花を、見間違えていた。見失っているつもりなんかなかったのに……たとえ掴まえることはできなくとも、きちんと見れているとは思っていたのに。  誰よりも理解者のつもりで、僕は誰よりも優花に傷をつけてしまっていたのだ。  いじめっ子よりも、偽善者よりも。  ――僕は最悪の加害者だ。  優花。許してくれとは言えない。でも、誰よりも君を愛しているつもりだから、  解けない呪いを、僕は解いてみせる。  空は、透き通った青をしている。ついにきてしまったこの日。風に靡く栗色の髪に手を押さえて、歩みの遅い僕に優花が振り返った。 「飛ぶときは、空の彼方だけ見ましょうね。下は見ちゃだめよ」 「魂が体に束縛されてしまう、とでも言いたいんだろ。わかったよ」  尤も、飛ぶ前に下を見られればこの計画は失敗なのだが。  僕はまた一つ、優花に嘘を吐いている。何も言わないという嘘、優花を救うためになると僕は信じている。 「最後にね、聞いてほしいの」 「なんだい?」 「私が死にたいと思う理由」 「……」 「私ね。高校生ではいじめにあってたの。ひどいいじめ。自殺まがいなことも、何度かさせられたわ。脅されて、好きでもない人とセックスさせられることもあった……義之も同じ。みんな、同じ。 誰も私が傷ついていることなんて、構いもしなかった」  知っている通り。  でも、続きは違った。 「そんなことは、どうでもよかったの」 「え?」 「虐げられて、苛められて、それは私の心が『誰か』に傷つけられるということ。勿論、そのときの私は、傷つけられたくなかったから態度を無理やり作ったわ。自分の心を押し殺してまで」 「――その頃が、全部が嘘の今の君を作ってしまった、のか?」 「『自分』に傷つけられるということ、そのつらさ、あなたにもきっとわからないとおもう」  優花が後ろ足に縁へ寄っていく。背筋に冷たい物が走ったが、押し隠す。表情には決して出さない。 「義之にね、言われたの。『がんばれ』って。たぶん、あの人は改心したんじゃないかな。高校生は子供だけど、一日でもそこから過ぎれば人はもう大人だから。 私には、その一言がつらくてたまらなかった。がんばってもがんばっても、嘘が歪になっていくだけなのに、これ以上どうがんばれって言うの? がんばり方教えてよって、泣き叫びそうになった。 私は、たぶんまだ子供なの――背伸びして、大人ぶってるだけの、子供なんだわ」 「……」  ――僕は、過ちに気づいた。  優花は分かっていないものだとばかり思っていたけれど、ちゃんと自分に向き合えていたのだ。ならば今回の嘘は、もう不必要。 「行こう、飛ぼう」  優花が僕の手を取る。足先の五ミリ程前には、もう踏めるものが無い。高さはゆうに六階建てのデパートをも凌駕する。絶景という魔力が、僕たちに飛べるのではないかと妄信させた。  待って。そう言うよりも早く、優花が上に顔を向けて舞い上がっていた。まずい。僕は、腕を引く力に抗う。  次の瞬間、僕と優花の位置が入れ替わった。  運が良いことに、優花と繋がっていた手も離れた。優花の手を引かなくて済む。死神に手を引かれるイメージを、僕は打ち破ったのだ。  なんで、という顔をした優花。僕はたぶん微笑んでいるだろう。何かを言う間も平等な神様はくれない。  僕は、落ちていった。  大人と言う子供ほど、まだまだ子供だ。  まだ子供だと言う大人は、すでに大人なのである。  僕は、優花はまだ子供だとばかり思っていた。子供ならば、一度間違えて正す方が良い。間違えて、失敗して、悔しい思いをする、そういう時期が子供のためになるから。  けれど、優花はちゃんと大人になっていた。子供は間違えてから直すけれど、大人は違う。  ――優花。君は、こんな間違った飛び方をしてはいけない。  上を向いて飛んでも、僕たちは下に落ち行くだけ。大人ならば、行う前から気づかねばならない。  ――優花。押し付けて、ごめん。  とっくに自分の気持ちに気づけていた君を、ここまで呪ってしまったのは、まぎれもなく僕。  君は死にたいとは思っていなかった。  傍にいる家族にまで嘘を吐かねばならなかったから、少しホームシックになってしまった。  『死にたいとは思わない。死んでしまえば、とても悲しむ人を残してしまうから』  君の気持ちは、純粋な悲鳴。  『心から家族といっしょに居たい。もう、嘘を吐くのは嫌』  ――優花。君は、こんな間違った飛び方をしてはいけない。  君が思うほど、翼は傷ついていないよ。  止まり木にも寄らずずっと飛び続けていれば、疲れもするさ。  ありがとうと囁きたかった。  優花に恋をして、僕は大人のフリをしていただけだったと気づいたから。  そうなれば優花と同じ。僕も大人。  ありがとうと囁きたかったけれど、落ちることは止められないから諦めるしかない。  残念だ。今なら、きっと僕でも、誰も呪わずに済む飛び方をできただろうに。  ほんとうに……残念――  目を閉じる僕は、パフッという感触に背中を叩かれた。  感覚がおかしい。ぐわんぐわんと車酔いみたいな吐き気がしている。視界がチカチカする。  優花が落ちたときのためのマット。その周りには、万一のために救急救命士の方々にも待機してもらっているし、優花の家族も召喚している。  計画通りではないために、困惑が広がっているようだ。僕は上を、優花の居る場所を指差す。  そして、ギョッとした。  大の字に四肢を広げ、笑顔を浮かべて僕に降りてくる優花。その目じりに浮かぶ涙が、宙に投げ出された途端きらきら光ったのは、一生忘れない気がする。  ――二次関数的に速度を増加。物質の落下速度の公式に従い、秒単位で激しい加速を得る。  優花は、運命的にもちょうど僕の上に落下した。  快晴にあう、眩い笑顔だ。僕は、大きな鈍器で全身を一打ちされたかのような衝撃に痺れる頭で、そう思う。  僕の首に両腕を回して、優花は悲しげに嬉しげに泣いた。  嬉しそうに笑いながら悲しそうに微笑み、僕を愛おしいと想ってくれている。  ……もういい。今日まで僕への罰だと思おう。  目蓋の裏にお花畑と川が見えた。川の向こうで、花飾りを頭にかぶった死神が声をたてて笑っている。  手を振ってくるなよ、ってか怖いよ。大学生だけどこれに追いかけられたら絶対泣くよ。花飾りでぷりちーさ醸し出してるつもりかもしれないけど、逆効果だよ。幽霊が怖がって川渡ろうとしないよこれじゃ。楽に失禁できるよまったく――  ああ、こんなツッコミができるだなんて、  平和だ。  心は襤褸布(ぼろきれ)みたいに磨り減ってしまったけど、たぶんそれは優花も同じ。  優花の方が幸せそうに笑い泣きしているのなら、平和ということにしておいてもいい。平和になったということは、致死量まで疲労困憊になってしまった僕は休息を取っても怒られないはずだ。  ゆっくりとその目蓋の重みが感じられ始めた。完全に閉じてしまう前に一層優花を抱きしめて、僕は、遂にその目を閉じたのだった。  曇り空が手を伸ばすように、白い輝きが青い海に絶え間なく降り注ぐ。  ――冬が来た。  僕のお気に入りの海は、優花の大好きな場所にもなった。 「こういう海も、綺麗だよね」  僕のマフラーの雪を払う優花が、僕に言う。 「じゃあ、ここに、身を沈めるかい?」 「もうッ」  ぽすっと、優花に胸板を叩かれた。手袋に包まれている手にパンチされても、痛くはない。優花も僕を痛めつけるつもりじゃないのだから、当然といえば当然だろう。 「どっちにしても、あまり海辺に寄り過ぎるなよ。危ないから」 「はぁい」 「良いお返事ですよ、っと」  優花の背中に手を回す。予め相談していたように、彼女が僕の胸に顔をうずめた。そして、えへへと上目遣いで見上げてくる。  無論、可愛いくて仕方ない……幸せを噛み締めた。 「それにしても、雪が濃くないか?」 「うん。寒いね」  寒いって次元じゃないだろ、これは。 「もし雪崩で死んだら、私に憑く幽霊になってでもちゃんと帰ってきてよね」 「無茶すぎる。第一、死ぬのは優花の方かもしれないぞ?」 「そのときは、私があなたに憑くだけよ」  自信有り気に優花が言うので、僕もそうできるような気がした。  ……死んだ後を考えてこそばゆい台詞を囁きあうなんて、成熟し切ったカップルがやるもんだ。  僕たちはまだ、一年近くしかいっしょにいない。お互いが合うかどうかなんて、生きる世界が違うかどうかなんて、分かるのはまだまだ遠い先のこと。  少なくとも今はお互いを好きと想っているから、せめて良い明日があることを祈祷して、 「優花」  大切な彼女と繋いだ片手を伸ばし、笑い合いながら歩いていくだけ。  手さえ離さなければ、鉄鎖は僕と優花を雁字搦めにして遠ざけはしないだろうから。  ……懸念の振り払われた、何の変哲もない平穏な休日のこと。  僕と優花はそうしてゆったりとした一日を過ごしたのだった。  一度はその手から抜け落ちていきそうになった、その幸福を精一杯に噛みしめながら――  教えてくれ、優花。  君に教えてほしい。  飛び方、未来への。  二対の|運命共同体(つばさ)となって、絶対にどちらかが欠けないおまじないを誓って、僕らは未来(そら)に羽ばたいていく。  身体と。心と。想いを携えて。