七月二十三日「何もかもが正常」
2009年 七月二十三日 夏――
「鼎さん。絵日記の今日の部分、いきなり英数字と漢数字が連続してるよ。どっちかに整えて――それに、日付の次に書くなら、やっぱり天気だよ」
「あああ、すみません! ありがとうございます!」
「ほら。やっぱり、この優等生にみせといて正解だったろ?」
「はい。美子ちゃんのはずばりでした!」
優等生といわれた十六歳の青年、
右手から――
来栖の席、机の右側面に腰を据えて来栖を振り返る、セミロングで狐目をした美子。
机に両手の平をべったりつける、二つのお下げとくりっとした瞳が印象的な鼎は、律儀にも来栖と対面の位置で立っている。
たった一人正しい座り方をしている来栖は、分厚い冊子のとある頁について優しく批評している。
そんな三人以外は誰もいない教室。耳をすませば、汗まみれになって
「全体的に敬語調だけど、これは気にしすぎではないかな。絵日記も点数がいくらか配分されていて、元気良く活発な風に作れば意欲、関心、態度のプラス点を稼げる。この場合の活発というのは丁寧口調な文章だと表現し切れなくてね、どちらかといえば"むっちゃ"や"すっげぇ"や、エクスクラメーションマークの多用を意識したりでもいい、音符マークを入れたりしても効果的だろう。この日記は、詳細にはなっているけれどその分堅くて、日記に必要不可欠な感情的さが足りていないみたいだね」
「はい、はい。そうなのですね。とても素晴らしい説き方です、すごく!」
「来須、この子は半分も理解できてないみたいだ。彼女にとって外国語にあたる我らが母国語を、もう少しゆっくり話してやれ」
「……悪い」
「力に乏しい私が悪いのです、来須くんが自分が悪いと気にするのは悪いことです!」
そして、来須はまたもくらっとしてしまう。
来須は鼎に初恋を寄せている。美子は、そんな来須の幼馴染だ。
美子は、鼎から悪い子という印象を受けてはいない。
また、幼馴染という贔屓目があっても、来須は美形であり気遣いもできる良い奴。二人を仲違いさせたいという意思もないため、美子は"どちらかといえば"来須の恋の成就を願っている。故に、少しは協力的に動くこともある。
夏休みの課題である絵日記に不安を膨らませていると鼎が相談してきた今日。二人の関係を接近させるため、おもしろ半分、美子は鼎をこの場に連れ回した次第である。そして、
「……悪い」
そして、来須はまたもくらっとしてしまう。好きな人に真正面から向き合っていることに、最高の幸せを噛み締めて。
◇
三人での昼食を提案した美子。二人は特に異論を漏らさず、美子の案は通る。三人はすぐに教室から発って、まっすぐ寮食に向かった。
美子は、どちらかといえば不良の類に入る。普段は少しチャラチャラしていて、制服のときもその雰囲気を幾分か纏っている。スカートも、短い。
対して鼎は、クラスに一人は居るだろう影の薄い子。美子と同じ制服であるのに、明度に欠けて、地味に思える。スカートも規定より長い。
「……」
その途中、脇の廊下から出てきて合流する三人の青年。
だが彼らはおしゃべりに夢中になっていて、来須達の歩みよりも大分遅い。
あっという間に来須達は追い越して、先に進んだ。
「……」
音楽室から漏れているのだろう、力強いヴァイオリンの旋律が来須の耳に届く。
次の瞬間、甲高い音色をたてて旋律は崩れた。
再びヴァイオリンが聞こえてくるより早く、来須達は寮食に入った。
普通の人も利用できる仕様により、
「おばちゃん! 今日のお料理は何ごとですか?」
「何ごと? ……ああ、何の料理かってことだね。今日は和と洋の二本立てだよ」
ひとつ【マツタケのお吸い物とお味噌汁とスペシャル牛丼】≪通称和コース≫
ひとつ【サラダたっぷりハンバーグチーズサンド】≪通称洋コース≫
「量が両極端だな……いえ、なんでもないですはい」
おばさんの威圧眼に美子が恐れおののいた。来須が口を開く。
「で、どっちにする?」
「私はどちらでもいいですが」
「俺もだ。美子、お前は?」
「うーん……和は、すこしキツいかもしれん。洋を希望する」
「じゃあそれで」
「私も、同じ物にします」
決まり、美子が代表してお盆にハンバーグサンドの包まれた袋を取っていく。
来須の前で、並べられていた袋が残り四つになった。
「えっと……ああ、あっちのほうがあいてるね。あの大テーブル」
「そうだな」
美子の手からお盆を奪い、来須は先を行ってしまう。
気遣いのつもりなのだろう。または、鼎の前で優しいボーイを気取りたかったのか。
美子が呆れ、鼎が微笑ましげに目を細め、来須が無表情の鉄仮面を貼り付けて、
一足遅れてやって来たあの三人の青年が、おばさんからハンバーグサンドを三つ頂いた。
「食事で思い出したのですが、一度も聞いたことがありませんでした。来須くんは、ここの寮生になるまではどんなだったのですか?」
「え? お、俺?」
「はい。私は来須くんについて興味があります! その次に、来須くんが昔の頃に食べていたお料理にも!」
興味がある。来須は幸せすぎて思わず失神しそうになるが、ぎりぎりのところで耐え切る。
――その後の、全力と全霊を込めて精いっぱい鼎に答えようとする来須の意気込みは、見た目で表すなら"血眼になって"というほど。もし見た目になっていたら、誰もが距離を置いたことだろう。
だが、外面は動揺に強い硬度であったのが幸い、いちおう『無口な少年と人見知りしない少女の他愛無い会話』は何ごともなく成立した。
"よきかな、よきかな。"――追加注文した二つ目のハンバーグサンドに齧り付いて、美子が思う。
来須と鼎は美子の食いっぷりに目を真ん丸くし、呆れて笑った。
◇
「食った」
「満腹なのは、裕福だということの証です。それはつまり、幸せだということなのです……」
「で、この後どうする?」
来須に振り返る、美子と鼎。
まだいっしょに居るつもり……いっしょに居てくれるつもりなのかと、心の中で美子への最大級の感謝を奔流させる。
しかし表面上は鉄仮面から揺るがない来須なので、ぶっきらぼうな具合に答えた。
「図書館に行ってこようと思う」
「図書館? 何とかお調べ事でもおありなのですか?」
「いや、調べるつもりはなくて……」
「ほら、鼎。来須は読書家だからさ、こいつにとって図書館は【第二の部屋】なんだよ」
「ならば、娯楽ということですか?」
頷く来須。その途端、パァッと鼎が満面の笑みを浮かべた。
「無問題です! 私も今後はお暇なのです! ごいっしょしてもよろしいですか?」
「へ? ――あ、ああ! 是非ともそうしよう!」
つられて微笑み、来須は鼎と横一列になって歩いていく。
美子は、
「後で鼎のこと迎えに行くから」
「おう」
と言って別行動。気を利かせてくれたと思って、来須は、
「おう」
ぶっきらぼうにつぶやいた。
◇
その頃――
「ニャーッ」
ヴァイオリンを弾き間違えた少女が、ぽりぽりと頬を掻く。
その前で小さな黒猫が一鳴き。少女はそちらに向いた。
「……」
どうやら、口にくわえていたビーフジャーキーを床に置いてまで、わざわざ声をあげたらしい。その意味は"どんまい"なのか"ざまぁねーな"なのか。
黒猫に足音も無く近寄った少女は、ぶうんと鞭のように上半身をしならせて、
パクリとビーフジャーキを口に運び込み、黒猫に一矢報いた。
サラサラとした少女の髪が陽の光を受け、黒猫の毛並みと同じ色に輝く。
◇
そして――
来須と鼎は図書館に来た。
照度があって人通りが少ない、微風が入ってくることはあるが陽射しは直撃しない、カウンターとの距離や本棚への距離も遠からず近からず、
そんな絶好の"来須席"に今日も彼は来た。一人の女の子を連れて。
「昼食時が過ぎるまでクーラーはつかないけど、あと数分だから窓はもう閉めておくよ」
「はい。それは正しいと思います」
本を置いて来須は窓に寄る。鼎はおそるおそる来須の本を見てみる。
「難しいご本ですね……"相愛性"? "
「"
すみません、と鼎が言う。いや、と来須はわたわた手を振った。
「確かに、これは難しい。仕方がない。か……鼎さんも、これから分かっていけばいい」
「ありがとう。そして私は、あなたがとても優しいと思います」
はにかまれて、そんな鼎が眩すぎて、来須は目を伏せる。余裕が無くて、無言で来須は席に着いた。
ついで鼎が隣席に腰かける。
本を読むこともせず、来須はテーブルの木目を見つめ、鼎は前を向いたまま時たま目を瞬かせる。来須は考えもなしに座ってしまったことを後悔した。
話の流れでいけていれば、オススメの本を教えて好感度アップのはず。動揺した自分のことを優先して動き、彼女にこんなつまらない時間を過ごさせてしまった――険しい無表情のまま、来須は自虐的になる。
切腹を決め込むまで悔んだその時、
「困りました。大変、とてもです」
鼎が不安げに来須を見た。何事かと、来須も真剣になる。
「どうしたんだ?」
「私、図書館のご利用し方を知ったことがありません。どうしましょどうしましょ!」
「……」
来須は深刻げな表情は失わぬまま前に向き直り、片手を裏ポケットに突っ込む。
震えそうな指でそれを摘み、取り出した。
◇
大分してから、図書館にばたばたと駆け込んできた美子、
「おう、ちゃんと居たな……来須、三冊の本に構って徹夜するのだけはやめろよ……鼎は、恋愛小説?」
「はい。簡単な言葉で描かれた、奥が深いです。題名は【ハツコイユメヒ】なのだと読めます」
夢の中に出てくる"彼"を知らぬうちに愛するようになる少女の、短い恋愛編【
趣味に合ってくれたようで何より――心の内で盛大に息を吐く来須は、無表情で無愛想に言い放った。
「それじゃ、俺は寮に戻ることにする」
「はい」
鼎がにっこり笑って、
「今度、スケジュールを聞かせてくださいましね。いっしょに返却に行くでしょう?」
と言う。来須は頷いた。
美子と鼎は、足早に去っていった。その背中を見送った来須は、おもむろに図書カードを目の前へ持ち上げる。
七月二十三日、無数の本の名前を足場にして、三つと一つの本が名を刻んでいる。
同時刻、同日付、しかし借り主はちがう。
彼女と自分を繋ぐ絆に思えて、それが赤いように錯覚してしまうほど気分が高揚して、
「宝だ」
無表情に冷たく、来須は言った。
◇
部屋にもどった来須は、時間を確認して机に。
イスに深く腰かけ、背もたれに体重を預けて、座るという姿勢に体を慣らす。机の本棚をぼおっと見つめて、来須は三冊の本から一冊だけを手に取った。開こうとして、机上にあった大き目の紙包が邪魔になり、片手で乱暴気味にそれを脇へ移す。再び本を、今度こそ開く。
一枚一枚ていねいに読み取っていく。ときには指で文をなぞり、ときには数頁前と見比べ、ときには一章分戻り、ときには感心の溜息を漏らす。
二冊目、三冊目も同じ様だった。来須は本の最後の一頁まで熟読し終えると、始める前と同じように伸びをした。首を横に曲げると、こきこきと鳴った。
時計を見る。来須はイスから立ち上がって、ベッドに突っ伏した。
枕に埋もれて窒息したかのように、全く動かなくなる。そして二時間が経って、のそのそ起き上がった来須は、眠けまなこで時計を確認し、大欠伸した。
またのそのそとぼとぼと歩いて、来須は風呂場に消える。数十分後、来須は帰ってきて、机上にある紙包を開いた。料理が入った長方形の箱が引き出された。麺を野菜や細かい肉片とともに焼いて、ソースをまぶした料理。
そして空になった頃、紙包からさらにペットボトルを取り出して中身をがぶ飲みする。そんな一連の動作を終えて一息吐き、来須は箱とペットボトルを紙包でもういちど一纏めして、清掃員によって中身の回収されたゴミ箱に投げ入れた。
来須はまたベッドに倒れこんだ。
日がとうに暮れた風景が、窓越しに広がっている。月が明るく照っている――
2009年 7月23日 快晴――
教室。今回は来須の席に座る鼎が、不安げな光の籠もる目で見上げた。
見上げられた来須と美子は、深刻な表情と笑みにならない強張った顔とを、互いに見合わせた。
それぞれ動揺している。だが、仕方ないだろう。
"明日"ではなく"今日"が、またやって来てしまった。