7月23日「ハンバーグチーズサンドと紙包」
三人しかいない教室。声も、光も、カーテンの揺れも、全部同じ。
来須は、小鳥が"七月二十三日"と同じ鳴き声をして、"七月二十三日"と同時刻に同じ物音がしたことまで把握している。
美子と鼎は"七月二十三日"に聞いた台詞を"七月二十三日"と同じ場面で体験した。それこそ"七月二十三日"と全く誤差無く。
――"7月24日"が来ないだけの現象ではない。これではまるで、
「俺達以外の人間も、日付と同じループ現象に陥っている……」
確認する来須に、鼎と美子が頷く。来須も頷いた。
「考えるべきことが多すぎて混乱しそうだけど、最優先に意識すべきなのは"七月二十三日"の再現だ」
「再現……?」
眉を顰める鼎に、すかさず来須がフォローを入れる。
「俺はさっき、俺達以外はループしていると言ったよね」
――ループであるが故に"7月23日"に新しい事象は何一つ起こらない。"七月二十三日"を台本にした、すべてが
「俺たちが数コンマ"昨日と違う"だけで、ループが壊れる――矛盾が生じる可能性が、ある。そのときに何が起こるのか、全く予想がつかない」
「はい。そういえばそのとおりです!」
鼎がぶんぶんと首を縦に振る。
「じゃあ、外界への影響を考えなくていいこんな密室のうちに、考えられることは考えておくべきだな」
美子が言った。
来須は少し黙り、自然と俯いていた顔を上げる。胸を張って、鼎と美子の二人に口を開いた。
「昨日、何かおかしいと感じたことはないか。
ループというのはあまりにも奇怪。それに繋がるかどうかまではわからなくても、ほんの些細なことでもいいから今は情報がほしい」
二人は答えない。それを、来須も特に咎める気はない。解明の糸口が見つからない焦燥感は、行き場なく来須の内を駆け巡って五指に握りつぶされる。痛くなるほど片手を握りこんだまま、来須は、
「じゃあ、仕方がない。"七月二十三日"の仕草を再現しつつ、探っていこう」
おかしな世界の中であるにも関わらず、無表情で無愛想に、簡潔に言い切った。
◇
三人での昼食を提案した美子。二人は特に異論を漏らさず、美子の案は通る。三人はすぐに教室から発って、まっすぐ寮食に向かった。
……という"七月二十三日"に則って、三人は行く。その最中、表情を強張らせる鼎を見て取って、来須が鼎の肩をぽんっと叩いた。
「最優先すべきなのは、再現だから。余裕があるときに少し意識するだけでいいんだ。一人の時間が多い俺が、なんとか打開策を見つけてみせる」
目を丸くして硬直、励まされたのだと気づいて鼎はクスリと微笑んだ。
「でも来須さん、無理は――」
そして何かを呟こうとするが、脇の廊下から三人の青年がちょうど合流してきて来須はもう鼎を見ない。鼎は心の中であっと呟いて、青年達を一瞥し、大袈裟に顔を背けて身を縮みこませた。
美子は平静を装うが、完璧な鉄仮面を被る来須より再現率は劣る。
だが、特に何も起きはしなかった。来須を先頭に、三人は寮食へ身を進めた。
ヴァイオリンの旋律に、背中を押されるようにして。
「お、おばちゃん! 今日のお料理は何ごとですか?」
「何ごと? ……ああ、何の料理かってことだね。今日は和と洋の二本立てだよ」
どもりながらも鼎が聞く。その表情は、今すぐにでも笑みを瓦解してしまいそうだ。
そんな鼎と同じ気持ちに蝕まれているのだろう、美子は二の句を続けようとせず。来須が慌てて美子に目をやったその時、おばさんが威圧眼を美子に向けた。
「な、なんでもないです。はい」
美子は普段からよく文句を言う。じっと料理を見つめているので、おばさんは先手を取ったのだろう。美子が戸惑って、瞳を揺らした。来須が口を開く。
「で、どっちにする?」
棒読み地味た会話を経て、お盆を持った来須の次に美子と鼎もあの大テーブルに腰を下ろした。
――ある程度は、許容されるのか。
決定的でなければ、矛盾にはつながらないらしい。よくわからない。来須は、三つのハンバーグサンドからひとつを摘み取って。
「えー。もうハンバーグサンド売り切れかよ」
一足遅れてやって来たあの三人の青年が、おばさんからハンバーグサンドを三つ頂いた。
――のでは、全然無いようだ。
売り切れ。言葉を脳裏で反響させつつ、来須は美子に目を送る。
「たぶん……ええと、ちょうど三人分を取ったら、空になっていたような……」
「――嫌な予感がする」
三人の六つの目が、青年達のほうを注視。
おばさんがすまないねぇと言い、青年の一人が舌打ちする"7月23日"
"七月二十三日"ではない、つまり矛盾点。
それは、輪ゴムを引っ張る力のようなもの。威力は強めだが猶予は一瞬。力により変型したゴムは、力を失くせばまた輪の形状にもどる。
形状認識体を一瞬だけ変化させる、それが矛盾の威力。それの末路は、先ほどので説明はできている。
形状進退プロセスの最中に――弾かれるか爆ぜるか砕き破られるか。
「――!」
来須が目を真ん丸くする前で、おばさんの目の前に泥沼ができた。
三人の青年の姿は、もう何処にも無い。
もちろんだとも。来須は未だその瞬間の映像を観ていた。
水風船が宙で割れたかのように、≪在り得ない≫泥を吐き散らして居なくなったその三人のことを。
◇
美子は、
「後で鼎のこと迎えに行くから」
「おう」
と言って別行動。来須は、その顔を覗き込んだ。
血の気はいい。真っ青になって足取りもふらふらしている鼎と比べれば一目瞭然、しかし態勢にどこか気になる点がある。来須はその直感を信じて、仲間としての責務を果たす。
「大丈夫か?」
「……バカヤロウ。私は頑丈だ。だから大丈夫。だって、一人の時間が多いお前が打開策を見つけてくれるのだろう?」
疲れた笑みを浮かべたが最後、美子はくるりと踵を返して"七月二十三日"をなぞる。
来須はその背中を、小さくなりすぎて見えなくなるまで見届けた。
「おう」
そして、ぶっきらぼうにつぶやいた。
◇
その頃――
「ニャーッ」
ヴァイオリンを弾き間違えなかった少女が、黒猫に呼びかけられても答えない。
「……」
どうやら、口にくわえていたビーフジャーキーを床に置いてまで、わざわざ声をあげたらしい。
だが返答はもらえない。パクリとビーフジャーキーを口に咥え、黒猫は仕方なく去っていった。
サラサラとした毛並みが陽の光を受け、少女の髪と同じ色に輝く。
◇
そして――
来須は"来須席"に深く腰掛け、眠るように思考していた。
矛盾が危険であることは言うまでも無いが、イリーガルの影響効果は如何なるものか。ある程度の予想は見立てているが、可能性のはなしでしかない。
矛盾は、ある程度起こりにくくなっている。先ほどのおばさんの時、"七月二十三日"の再現に値する行動ができていればいいことが分かり、阻害する行為があれば簡単に崩れることが分かった。例えば会話なら、主軸でないかぎり相槌を打つことが代用品になるかもしれない。その代わり、別の話題を持ち出すことは必ずしてはならない。
矛盾で、人が居なくなる――居なくなった人はどうなるのか。考えたくはない。
「来須、さん」
「……」
「来須さん!」
ハッと、来須は我に返った。慌てて隣席に座る鼎へ振り向こうとし、
ギョッと――目を剥いた。
「くる、す、さん――」
「鼎さん」
【
目蓋の裏に残る畏怖すべき泥水が、来須の目の前でぐつぐつと音をたてていた。
正しくは鼎の手の中。手首にへばりつき、重力に沿って下方――斜面をつくる腕の線を伝う。
顔を顰めて呻いた鼎。それを拍子に、凝視の状態から来須は脱した。
「鼎さん!」
片手を振り上げ、狙いすました一撃で
だが次の瞬間には、ただの水溜りと化していた。はぁっと肺から息を吐き出して、来須は己の腕を見下ろす。
赤く爛れていた。腫れるように、しかし痩せこけるように。輪郭がおぼろげになって、肉が削がれたように来須は見て取った。
痛みはある。だが、無理して押さえ込む。来須は、鼎に振り返った。
「大丈夫か」
「ええ、うん。痛くはないわ……これくらい、平気よ。ありがとうね、来須さん」
来須は首をかしげた。無理もない。咄嗟に鼎が口から出した言葉は、来須にとって外国語で鼎にとって母国語にあたる物だったのだから。
鼎もすぐさまそれに気づき、
「いえ、はい、大きく丈夫です。とてもそうです……」
両手を振って訂正しようとするが、痛みが走ってまた顔を顰めることとなった。
来須も見た。いや、見せられた。鼎は意識していないだろうが、両手を振ったことでまざまざと来須にそれが見せ付けられてしまった。
それは、来須など次元違いな、損失。
右腕には、三つ四つほど空洞がぽっかり空いていた。左腕には、木の幹が乱暴に剥かれたような爛れがある。
次元違いと称した理由の大部分は、その二つに共通したある現象。
来須はドライアイスのようだと思った。個体が、煙をもうもうと吐き出している――鼎の両腕から実際に出ているものは、湯気に近かった。
気体の噴出が途絶えない。鼎の見るに耐えない両腕は、見る間に細く細く。
意味があるかはわからないが、反射的に来須は鼎の両腕に触れようとした。その瞬間、ゾクリと違和感を抱いて手の行先を変更。
来須が乱暴に胸ポケットから取り出したのは、図書カード。宝。しかし来須は、焦ってそれを投じる。
方向など関係ない。ただ手放すことが重要――同じように、なりたくなければ。
宙に放られた図書カードは、滑空中に色と材質を泥水に変化させる。変わり切ったかどうかわからぬ内に、図書カードだったその泥水は本棚へ打ち付けられて、左右二方向に飛び散った。
ぬちゃっと音がした。不愉快に思って、片手で口元を押さえようとする。その片手の平を目で見て、
「クッ……!」
皮膚の取り払われた筋肉と骨が丸見えで、視界の隅にすら置かぬことを心がける。
"来須席"に置き去りにした三冊も、もう無い。椅子を濡らし、床にこぼれる泥水が、人か何かの形をとって蠢いてきそうで来須は怖く思った。
◇
大分してから、図書館にばたばたと駆け込んできた美子。彼女は来須から鼎の両腕の話を聞いて、真っ青になった。
「痛く、ない……?」
「今はもう、ひりひりするだけです。それよりも、とても大変なのは、私のシナリオです」
鼎は来須に向く。その目は真摯に光る。
「私はこの後、演劇の部の意図に身を委ねるので、踊らねばなりません。そして、衣装も着替えます。衣装について、腕は全く隠すことができないのです」
「それって……うん。大変なこと、かも、しれない」
来須は自分の手を見下ろした。そこでようやく気づいた。
――消えている。
あれほどの痛み、それがほとんど消えている。妙な幻痛は拭いきれないが、このままならじきに良くなるだろう。
おかしいなんてものじゃない。これは“異常”だ。しかし――と思って、来須は鼎にその手を見せた。
ハッと、鼎の目が見開かれる。そしてその目は、自らの両腕へ。
応急処置も何もできず、放置されてその見るも無残な両腕は皆の目に晒されていたというのに、今、来須と鼎と美子の目には、
陶器のように白い、しかしあまりにも細すぎる腕が光すら放っているように美しく見えた。
「とりあえず、大丈夫だろう」
力を込めて、来須が言った。
頷く二人は、同じ光を瞳に輝かせている。
美子は――まるで、鼎を気味悪がるように。
鼎は――この世界について、困惑するように。
◇
部屋にもどった来須は、時間を確認して机に。
イスに深く腰かけ、背もたれに体重を預けて、座るという姿勢に体を慣らす。机の本棚をぼおっと見つめて、机上にあるはずの大き目の紙包が無いことに気づいた。
"七月二十三日"には最終的にゴミ箱へ捨てたはず――ある予感を胸に秘めて、来須は机の横へ、ゴミバケツの中へ目を下ろす。
くしゃくしゃになるわけでもなく、ぽすんと置かれているそれはあの紙包以外の何物でも無かった。
来須はわざわざそれを机上に移動させて、おそるおそる開ける。
あるのは、中身の食べ終えられた箱皿と六分の一まで内容液の減っているペットボトル。
来須が行った"七月二十三日"の最後の行動『就寝』直前と、そう差は無かった。
「つまり、ループしていない者の消費物は、戻ってこない……?」
ハンバーグチーズサンドの事が脳裏に過ぎって、もし"明日"も"今日"であったならばと来須は表情を強張らせる。
日がとうに暮れた風景が、窓越しに広がっている。月が明るく照っている――来須はふとあることに気づいて、再び紙包へ目を落とした。
――おかしい。
そういうループ現象であるのかもしれないが、可能性として考えるに値する予想が一つ思い浮かんだ。
例えば、この紙包がそうだ。
中身は、イリーガル要素である自分によって消失したが、ここにある。
なぜここにあるのだろうか。寮生の衛生管理の一環として、ゴミは朝に取り除かれる。ならば、ここに紙包はあるはずがない。
考えられるのは、清掃員が矛盾に蝕まれて爆ぜたこと。だがそれも、在り得ない。
改めて生徒手帳を確認した。学校になる前は軍の格納庫だったという話、校歌、校則、学生の風俗について。その後に、清掃員のおおまかすぎるスケジュールが記されている。それは、ゴミの処理という"イリーガルと接触する機会"の時間帯を把握するには十分すぎた。その時間は三人がいっしょに居て、清掃員に接触できるはずがないということも同時に来須は考えつく。
矛盾のしようがない。ならなぜ、ここにあるのだろうか――来須は思い至った。
「もう一人、イリーガルな人物が……?」
と呟いた。
そのもう一人が何かしでかして、清掃員が消えてしまった。来須の予想はとても簡単なものだ。
または、と。もうひとつ思い浮かんでいる物はあるのだが呟くことはせず、胸の内だけで反響させる。そして来須は、日がとうに暮れた風景に目を細めた。
――決定的な事柄は、ある。
ハンバーグチーズサンドのときを思い出せば、いい。
サンドが無くて消えた三人の学徒。それは矛盾によるものだと思っていたが、もしそうならばおかしいじゃないか。
なぜおばさんは消えなかった? 三人にサンドを渡せなかったあのおばさんも、矛盾を抱えたはずなのに。
この決定的な事柄と、紙包が在る理由。清掃員は消えたのだと仮定して、導き出せるのは、
"または――人が消える要因は、矛盾では無いのかもしれない"
――風景の一番向こうまで見渡すつもりで、来須は窓の外を睨みつけた。
そして、考えを束ねて結論を出す。矛盾を気にしなくていいならばと、"七月二十三日"に踊らされなくていいのならばと。
「ここからだと平穏に思える、学校の外の世界は」
果たしてどうなっているのか。学校と同じか、またはそれ以上に理解不能か。
同時に、響き渡った。
いや、やっと耳で聞くことができるようになったというべきか。
それは、"7月23日"の、甲高い悲鳴。
軋む音。
゜◇。
ヴァイオリンの音色が、打ち消していた。
とりあえず、少女自身の耳に入る悲鳴のみは、一応。
少女は、
慰めるように、励ますように、
想いに濡れた、純に澄み切った、
その旋律を淑やかに真摯に紡ぎ上げていった。
その音色は、世界全土から発せられる軋み音を打ち消していた。
とりあえず、少女自身の耳に入る悲鳴のみは、一応。
゜◇。
2009年 10月10日 快晴――
教室。今回も来須の席に座る鼎が、不安げな光の籠もる目で見上げた。
見上げられたものは、天井。それ以外、何もない。
"明日"ではなく"今日"でもない日が、突然やって来てしまった。
゜◇。
光の閉ざされた世界。雲が敷き詰められているのだろうか、鉛色の空には夜の象徴も朝昼の象徴も浮かんでいない。
来須は目を下ろす。と、そこには、死体がころがっていた。
兵士だろうか。来須は思う。服装がそのようだったことと、死体の手から銃が零れ落ちていたことが、思った起因だ。
上でもなく下でもなく、来須は前を見る。
でかい箱があるだけだ。核シェルターか何かをごそりと抜き出したかのような、巨大なうえに堅固そうな箱。光が無くて何もかもが薄暗い視界の中では、一番白っぽく見える。
見つめていて、ふと来須は気づいた。
――……入口はどこだろうか。
箱は、目を逸らしきれないほどの圧倒的存在感をもってどんと鎮座する。
それもそのはず。なぜならば、箱が"此の世界の殆ど"なのだから。
『
神よ。おお、神よ。
あなたが手を差し伸べれば、幸福に飢えて朽ち果てようとする我々はきっと救われるだろうに。
あなたが言葉を囁けば、誤り続けて血の沼を作っていく我々が同胞は正されるだろうに。
あなたが赴けば世界は優しく照らされて、
木々は微々たる音をたてて笑って、
川は青空を映して輝き、
川をつくる水は切なくない冷たさを帯びて、
鳥達は声をあげて嬉しがり、
牙を持つ物も頭を下げるだろうに。
おお、神よ。あなたが憐れに思えてならない。
世界を創っておきながら世界をどうにもできないあなたが、憐れに思えてならないのだ。
おお、神よ。あなたは憐れだ。
救いを求める我々は、
救いを求める我々の同胞は、
救いを求める木々は、
救いを求める川は、
救いを求める水は、
救いを求める鳥達は、
救いを求める牙を持つ物は、
どうしようもなくなってただただあなたを呪ってしまうだろうから。
』
歌声を耳にして、来須は歩いていった。
鉛色の空の下、何よりも厖大な"この世界"へ。