0. ――しくしく ――しくしく 置いてかないで。 僕を置いてかないで。 ――しくしく ――しくしく 捨て行かないで。 僕を捨て行かないで。 ――しくしく ――しくしく 忘れないで。 僕を忘れないで。 1. 最悪な目覚め具合だ。 コップになみなみと注がれた牛乳を飲み下し、食べるのが億劫な食パンを見下ろす。 床暖房でない、極極普通の洋風な床。リモコンで開け閉めできない、極極普通のカーテンと窓。ちょっと最新ではある、薄型液晶テレビ。 開け放されたカーテンのせいで、まったく阻害されていない日光が窓越しにテレビを照射している。液晶にくっついている埃が目立って、テレビの内容がわからない。目を凝らし、しかしその行動で起こる目眩がひどくてテレビ観賞を諦めざるを得なかった。 「 「……わかってます」 すぐに飛んでくる しかし、その返答が気に食わなかったのか――多分ぶっきらぼうと取ったのだろう――ばたばたと部屋を行き来していた母親が立ち止まって溜息を吐いた。 「また こういう性格が気に入らない。あえて私の前で溜息を吐くことも、小言をばりばり発しながら「私の返答を望んでいない」なんて言って、しかし私が返事をしなかったら気性を荒立てる。こういう性格が一番気に入らない。 「 親との口論がめんどうで、携帯は極力使わないでいる。 他の母親様と何を話したのかはわからないが「自由に使って良いわよ、あなたの社会性を高めるためなんだから」と言って携帯を渡したくせに、私が携帯を使う度「私が学生だった頃は……」と愚痴りだす。そんな母親と一生分かり合えないのは、分かり切っている。顔を合わせるだけでその日一日の気分が最悪に落ちるのが当たり前な今、ちょっとでもこの母親と世界を共にしないよう気をつけなければならない。私は私の世界にいなければならない。私の世界を壊されないために、私の世界をこんな母親に毒されないために、私は私自身をしっかりと誇示していかなければならない。 「もっと勉強すれば満点が取れるじゃない。なんでそう発想できないのかしら? 円はやればできる 「あー、はいはい。あなたの理想と私が違いすぎてるのはわかりましたから、そろそろ出かけさせてくださいね」 高校二年生後半ということから考えれば、この母親の意見は間違っていないようにも聞こえる。しかし、高校一年生から言われている私にとっては、所詮「他の人に誇れる凄い どうにもできないのだ、この母親は。 いつも私に正当な理由で負けている口論に、まだ勝てると思っているこの母親は、自分中心論を捻じ曲げるつもりはないのだ。 反論できなくなったら鼻で笑って話題を換え、それも回数が重なれば「母親になんて態度とるの、この子はっ!!」と馬鹿に この人にとって、私という存在は「自分はわが子を正しい道に導いている良い母親なのだ」と満足させるだけの 「私が高校生だった頃は、良い大学にでて少しでも両親に良い思いをさせてやろうって……」 母親の小言に背を向け、早足で玄関に出る。 靴を履き、ドアノブに手をかけ、ドアを押し開け、一歩を踏み出す動作までを一気にこなし、私の心を裏切って雲ひとつなく澄み切っている青空を見上げ、私は息を吐いた。 吐いた息が白くなる季節はもう過ぎたようだ。桜の蕾の付く木々が、春の訪れを予感させる。これほどまでに季節が巡れば、さすがにスカートでも寒くない。 「あの夢……なんだっけなぁ……」 思い返す。 見ていたときには思わなかった違和感は、夢にはありがち。テレビを見ている夢なのに、テレビの内容が全くわからないのと同じ要領だ。夢の舞台がどこか 「今日は、いつもより憂鬱だよ……」 息を漏らす。 しかし、ハッと思い出してカバンに手を差し込む。 求めていたものの手触りを感じ、引っ張り上げた。 「あったあった、っと」 小型音楽再生機器から取れかけていた端子部分を付け直し、ヘッドホンを耳にかける。 "桜、桜。あと少しだけ。僕のわがままを聞いて――\" 桜と、それの咲き誇る季節を謳うその曲に意識を傾け、私は気分を入れ替えるように軽い足取りで歩き出した。 2. 外から聞こえる声の嵐。「あとうん週ー」という声から察するに、持久走でもやっているのだろう。 「ここは中学でやったところだから、みんなわかってるよなー?」 教師から顔を背ける者を数名見つけ、鼻で笑いたくなる衝動に駆られる。 「……そこのお前。ちょっと答え言ってみろ」 私と目の合ったその人は、すぐに私を当ててきた。 周囲の目が私に向く。私はそれを見渡し、思った。 ……これは劇の一幕だ。 それ以上の独白を自制して、教師に目を向けなおし、口を開く。 「−55です」 一瞬の無言の後放たれた「正解だ」という教師の一声で、みんなの視線が私から離れきった。 ……訂正。 頬杖を突き、思う。 ……これは劇の一幕なんかじゃ、ない。 所詮は日常。私は何を期待したのだろうか。 何を期待――わかっていることだ。自分のことだもの。わかっていないはずがない。 個は個自身を完全に理解できぬからこそ、迷うという概念を振り払えない。故、道徳という科目では自分を見つめなおすという方針での「自己確立の促し」と「集団生活での自分損失の免れ」つまり迷わないための時間を各々に作らせようと科目製作者は意図していて―― ……なんという独白。なんという私の思考回路。 これだからPQとやらが低いのだろう。自分の癖が自分の能力に枷をかけているのは放っておけない。何か手を打たなければならない気がしてくる。 「まぁ、とにかく」 ……多くの だから、ドラマチックな展開でこの日常が変わるのを期待する自分は、仕方のない妄想家にすぎない――いや、ここまでは誰も聞いてはいないし、私自身も確信付けたくないことだからやめておこう。 「ちょっと遅くなってきてるー」という金切り地味た声を聞きながら、私は頬杖の突き心地があれだったので若干の悪戦苦闘を始める。 3. 昼食時間。いつもどおりの時間に鳴ったチャイムの残響消えぬ間に、私は屋上へと駆け上がった。 数段飛ばしの中、速度を急上昇させドアにタックル。 たかが板のそれは、バンッと盛大な音を発してコンクリの壁にぶつかった。 金具部分は頑丈なようで、私のような女性の一撃ではびくとも壊れようとしない。 私がぶつかっても痛くない程度にひょろっちぃドアでもあるし、なんと生徒のことを考えた設計かと製作者に賞賛の言葉を送りたくなる。 「……っと」 今回は私の勝ちか。 誰もいない屋上を見渡し、私は静かにほくそ笑む。 そのとき、背後に気配を感じた。 ……なんと都合の良いシーン移行。 強まる自分のニヤニヤを知りつつ、私は振り返った。 「あちゃ〜、今回は俺の負けか」 はにかみながら頬をぽりぽりと掻く、身だしなみが美しくない不良風情が一名。 私は、わざとニヤリと微笑んで――もう勝ち誇ったように微笑んでいるだろうが――口を開く。 「今回は私の勝ちだな。 「ああ……完敗だ」 肩を竦めた晃が私の隣を過ぎて壁際へ歩み行く。 その手に持たれた、フランスパン酷似の「スィートミルクパン」という袋に包まれたパンを見て。 「あっ」 私は、声をあげずにはいられなかった。 私の声に眉を顰めた晃も気づいたらしく、先ほどまで私も浮かべていたであろうニヤリとした笑顔をつくる。 「俺の勝ちみたいだな」 何も持っていない手を恨めしげに見下ろす。机の横にかけたカバンに眠っている弁当包を思い浮かべ、盛大に舌打ちを打った私。 晃は「舌打ちなんてするんじゃねぇよ」と苦笑いしながら、パンを半分に千切った。 片方にかぶりつき、もう片方を私へ向ける晃。 私は、その意図がわからないようなバカでも天然でもない。 「……背に腹はかえられん、か」 しぶしぶといった風を装い――情けをかけられたと認めるのは霧消に悔しいから――パンを受け取る。 生クリーム状のミルクを覗き込み、晃が私をうかがい見始めたのを感じ取ってから、豪快に 「うげっ、もうちょい女らしく食えないのかよ……」 苦笑いを通り越して失笑になりそうな晃の表情を見ている私は、きっと破顔しているだろう。 その理由は、今の一口がとても甘くて美味しかったからに違いない。 4. 最悪だ。 いきなり降り出した雨のせいで帰宅方法が徒歩から電車に変わったのは、まあどうでもいい。母親と同じ屋根の下で過ごす時間が減ったと思えば、嬉しいくらいだ。 最悪なのはほかでもなく、晃などという存在に借金をしてしまったことだ。 「不覚だ……あの馬鹿親の勝手を許し、サイフの持ち運びをやめたせいで、一生の不覚をこの日としてしまった……不覚だ……」 「たかが300円程度でそう唸るなよ……」 やっぱり苦笑いな晃の髪から、大きめの雫が滴り落ちる。 駅のホームは無人に近い。オレンジのでこぼこタイルと同じく途方もなく続いていそうに見える線路。私の座る濃厚オレンジの堅いイスも、少し湿気ていそうでそうじゃなさそうな。 「この大失態は切腹ものだぞ……ぁぁぁぁ……」 「……奢った俺は、そう悲しまれるとつらいんだが」 ……もう少しからかってやろうか。 そう思いはしたが、雨音の羅列があれだったので素直に機嫌を直してやることにした。 缶コーヒーを悠長に飲んでいた晃――しかも無糖。高校生にあるまじき大人な味覚に怒りゲージが増したようなそうでないような――に、私はやっぱりもうすこしからかってやろうと思い直すがときすでに遅し、目がばっちり合ってしまいもう一度項垂れるには方法の発案がダメすぎる。なんて思考回路だと自分を罵倒したくなったがそれはまた今度にしておく。自分には徹底的に甘くいくつもりだ。 「だから私はカフェラッチ!」 「……いきなり叫んだりして、頭大丈夫か?」 蔑まれたのが少し悲しい。まるで私がきちがいの馬鹿みたいじゃないか。 ……そのとおりだと自答し思ってしまったのもまた悲しい。 「っと、来るみたいだな」 鳴り響き始めたトゥルルルル音に、晃が線路へ顔を向けた。 私も口を閉ざし、立ち上がる。 タイルまで歩みだそうとして、あっという間に訪れた電車の突風に目がしみた。 「あっ」 「っと」 ぐるっと上に移った視界で、こけてしまったとだと理解する。 「おい、大丈夫か?」 「……認めたくなーい」 某こんにちはの名言を呟き、現実の否定を試みるが、は? と首を傾げる晃がどうしても消えてくれない。 最悪だ。こけたことも最悪なことにかわりないが、この場合の最悪対象は晃に抱きかかえてもらったという事実にほかならない。 もつれた足を正し、しっかりと地を踏みしめて晃から離れる。 先ほどよりも深く欝る必要があるが、開け放されたドアがしまってはいけないので妥協する。妥協して、歩き出す。 ついてくる足音が鼓膜を震わせるが、全力で無視する。一時的平常心のために背後の存在を全否定する。 車内へ入り、呼吸のリズムに全力を傾け―― 「……いつまで無視するつもりだよ」 「……できるのならば、いつまでも」 ――られなかったので晃の存在を肯定してやる。 晃へと顔を向け、まだ開けっ放しなドアの外の世界が視界の隅に映る。 何の風に思ったわけもなく、ぼぉっとそちらへ顔を向け、さっきまでいた私たちの場所を見て。 ――爆雷が弾けた。 5. ――ぬいぐるみさん、いなくなっちゃったの ――まだ帰らない。ぬいぐるみさん探すの。 そう言った小さな小さな女の子は、困った顔をする女性の手を振りほどいて走り出そうとし、すってんころりんとこけてしまった。 ――痛っ。 ――……ぐすん。 だけど、泣かなかったその女の子は、涙のにじんだ目を閉じて、立ち上がろうとしない。 ――ほら、行きましょう。 ――ぬいぐるみなら、向こうで買ってあげるから。ね? 女性に手を引っ張られ、無理やり起こされた女の子は涙を目の端に浮かばせ、だけど泣かなくて。 女性と女の子は、雨音の羅列する中、電車の中に飲み込まれていった。 6. ドアが閉まる。 動き出した景色に、私はハッと息を吐き出した。 血液が回るという錯覚を得ながら、手すりに寄りかかる。 「おい、大丈夫か……?」 言わなければならない。 作らなくてはならない。 私の顔を覗き込んできた晃を、安心させる言葉を。 心配げに微笑みをやめる晃を、笑顔に戻す言葉を。 「晃…………」 しかし、口は別のことを言おうとしていて、それを抑えるために言葉を発するのをやめなくてはいけなくて。 ……言ってはならない。 夢の全貌を思い出し、それの重大さを感じ、しかしそれの軽さがわかるからこそ、他に漏らしてはならない。 これは自分の問題で、自分の勝手にすぎないのだから。 だけど、私はいつしか晃の胸板に飛び込んでいて、その胸に手を当ていて、その瞳を見上げていて。 自分が自分を裏切るというおかしな現象に、ちょうどいい表現が浮かんで戸惑った。 ……期待しているのか。私は、晃を。 彼なら私についてきてくれると、私は期待している。だから、晃を突き放せない。 とりあえず総ての線はひとつに繋がる。だが、しかし、在り得ない。 私は、どちらかといえば賢い部類に入る人間で、薄汚い部類に入る人間だ。そうだから母親との関係の改善をしたいと思っていないのだろうし、夢見がちな乙女チックさを一粒も持ち合わせていないと断言していいのが私だ。 しかし学業においてはリーダーとして他を動かすこともあるし、無駄と必要の分別も大概だができると思っている。 そんな私が、夢の追求を手伝ってくれと他人に頼もうとしているだなんて、在り得ない。私でなくとも、一般論的にも在り得ないはずだ。 しかし、でも、晃ならきっと――だけど…… 「円……」 今思えば、この一声が私を揺さぶったのかもしれない。 二つの道の前で足踏みする私は、その一声で決断したのだ。 「晃……私の我侭に付き合って、おねがい」 7. ……なんだか、大冒険のお話の冒頭みたいだ。 ぬいぐるみがキーワードの大冒険。ありそうで、しかしありそうにないお 「まあ、これが退屈で終わるかどうかは、私には関係ないのだけどね」 しかし歩みだすのだ、私達は。 目指す方向、手がかり、何を探すか――明確なものが何一つないけれど、そんなことは関係ない。 「追い求めたい衝動に突き動かされる……それがドラマチックの極みでないはずがない」 ……劇の一幕だ。 今回こそは期待はずれではないだろう。 記憶だけを頼りに突き進む。まるでゲームのようなこれは、必ずに劇の一幕となってくれる……そんな予感が私を満たしていた。 「立ち止まってはいられないな……」 少し振り返る。 今にも舌打ちが漏れそうな顔でカバンを漁っている彼に、私はドラマ的に王道であろう言葉を放った。 微笑とともに、一言だけ。 「行くぞ、晃」 大冒険が――始まった。 |